1993年11月、日本でインターネット商用利用が解禁[第1部 - 第6話]
「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第6話。前回の記事はこちらです。今回の記事では、日本でインターネットの商用利用が解禁された1993年11月~1994年末頃までの出来事を振り返ります。
米国では1991年3月にインターネットの商用利用が解禁されました。日本では少し遅れて1993年11月の解禁となりましたが、一般的に使われ始めたのは1994年からと言っていいですね。佐藤さんはAppleの担当者を務めながら、こうした時代の変化に立ち会ったというわけですね。
確か「マルチメディア構想」という名前だったと記憶していますが、当時は政府主導でコンピューターやインターネットを推進する動きがあり、世の中的にも少しずつそうした取り組みが活発になってきていました。
1993年11月、日本でインターネットの商用利用が解禁
佐藤:当時、僕の会社の席には直通電話線が1本引かれていました。MacのPowerBook Duoには内蔵モデムが搭載されており、朝会社に行って電話線をつなぐと、インターネットに接続する時の「ピーヒャララララ」という音が鳴り響くわけです。周りの人たちに「こいつ何やってるんだろう?」という顔をされていました(笑)。
佐藤:その頃日本でウェブサイトを持っていたのは、僕の知る限りではNTTと、「富ヶ谷」というホームページを運営していたエコシスという会社の2社くらいでした。「富ヶ谷」という名前は、エコシスのオフィスが東京都渋谷区の富ヶ谷にあったことに由来しています。
伊藤穰一のコラムでインターネットの可能性に想いを巡らせる
佐藤:同じ頃、当時まだ30歳手前だった伊藤穰一が書いた「インターネットがもたらす社会変革」に関する連載コラムを読み、彼の存在を初めて知りました。昔のことなので正確ではないかもしれませんが、伊藤穰一はそのコラムの中で、インターネットによって以下の2つの変化が起こると明言していました。
- 誰もが情報発信をできるようになり、個人がエンパワーメントされる
- すべての中間業者がなくなり利権が破壊される
このビジョンの壮大さに、僕は深く感銘を受けました。当時は、日本のインターネットの父と呼ばれる慶應義塾大学の村井純教授が、インターネットのインフラ面に関する情報発信を積極的に行っていました。一方で、伊藤穰一は「インターネットで世界はこう変わる」という思想的な話をしており、僕はその考えに共鳴しました。世の中が大きく変わるんだ、という思いが胸に迫り、インターネットに対する期待が膨らむばかりでした。
杓谷:「すべての中間業者がなくなり利権が破壊される」は今見ても刺激的なフレーズですね。これから読者の皆様と一緒にインターネット広告の歴史を振り返っていく中で、少しずつこの方向に進んでいることが実感できると思います。本連載の裏テーマとも言えるキーフレーズです。
佐藤:伊藤穰一の「個人の情報発信」と「利権の破壊」といった考察に深く共鳴したのは、Appleの革命精神とつながりを感じたからです。
AppleのCM「1984」は、1984年のスーパーボウルで放映された、Appleの伝説的なCMです。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに、当時のコンピューター業界を独占していたIBMを「ビッグ・ブラザー」に見立て、その支配から人々を解放するヒロインが登場するという内容でした。
杓谷:少し後の話になりますが、1995年11月、MicrosoftはGUI(Graphical User Interface)を採用したOS「Windows 95」を発売しました。GUI採用のOSはAppleが先に導入していたため、Microsoftはそのスタイルを取り入れた形となります。1984年に放映されたCM「1984」の約10年後に、「IBM + Windows OS」という構図で再び同じような状況になりましたね。
佐藤:また、Appleは1987年に「Knowledge Navigator(ナレッジナビゲーター)」というコンセプト動画を発表していて、コンピューターの中のコンシェルジュに頼むと来週のニューヨーク行きの航空券を予約してくれる、といった世界をすでに描いていました。
インターネットの登場前は、「どうやってこれを実現するんだ?」と思っていましたが、コンピューターがインターネットに接続されたことで、「異なるデータを組み合わせればいつか実現できるかもしれない、やはりインターネットは革命的だ」と考えるようになりました。AIが登場した今、この動画のコンセプトはもはや現実のものとなりつつありますね。
「日本のアニメ」をインターネットで全世界に配信しよう
佐藤:そうした中、旭通信社でもマルチメディア化に取り組んでいこうという全社横断プロジェクトが立ち上がり、国際部からは僕が参加することになりました。
これまで、通常の電話線を使ったデジタル回線はISDN(Integrated Services Digital Network)と呼ばれていましたが、従来のISDNでは難しかった動画などの伝送が可能な次世代規格「Broadband ISDN」が登場しました。これを使って『ドラえもん』を世界に配信する、といったアイデアが出たのですが、インターネットが海外で急速に広がっているにもかかわらず、社内ではなかなか取り上げられませんでした。結局、僕も含めて詳しい人達で企画を練って、プロジェクトの責任者に提案をすることになりました。
前述の伊藤穰一のコラムの影響を受け、「インターネットとは、ショールームであり、図書館であり、放送局である”Detabase Broadcast”だ!※」とプレゼンをしました。「アニメに強みを持つ旭通信社として、インターネットでもアニメを発信していくべきだ」とプッシュしたところ、あっさりと企画が通ってしまいました。後になって「これは”Broad”castじゃないな」と気づくのですが……。「で、これはいくらぐらい儲かるの?」と聞かれて「月々50万円くらいですかね?」なんて答えていました(苦笑)。
杓谷:今でいうNetflixのようなサービスを構想していたわけですね。当時は”Broad”というほどインターネット人口が多くなかったと思うので、どちらかというと”On-Demand”の方が適切だったかもしれませんね。
佐藤:結局、この全社横断プロジェクトはシステム部の主導となったのですが、システム部は最初から少し否定的で、「こんなのビジネスにならないよ」といった具合でした。彼らがかける労力に対し、成果が見合わないわけですから、仕方ありません。
それでも、第4話で登場した氏家さんにホームページを作ってもらったり、コミケで撮った写真をホームページにアップロードしたりと、精力的に取り組んでいました。氏家さんは元々は映像作家でしたが、これをきっかけにインターネット関連の仕事が増えていきました。後に僕がInfoseekに移った時も、クリエイティブスタッフとして彼と契約を結ぶことになります。
伊藤穰一、デジタルガレージとの出会い
佐藤:当時、いわゆるインターネットの掲示板であるBBS(Bulletin Board System)を個人で立ち上げることができる「FirstClass」というソフトウェアがありました。僕も知人の会社に頼んで国際部にインストールしてもらい、海外支社とつないだのですが、それがもう面白くて(笑)。
その社内BBSには、仕事に関連する「○○の部屋」をたくさん作ることができました。それぞれの部屋にコメントを残したり、仕事関連のファイルを置いたりできるイメージです。「メールのやりとりもできて便利だよ」と勧めたら、みんな当たり前に使うようになりました。
杓谷:今でいうと、SlackやChatworkのような感じですよね。社員の方しか入れない掲示板なわけですから。
佐藤:そんな中、同期のひとりが研修旅行でニューヨークに行ったことを社内報で知りました。その社内報では、彼が米国で見た広告業界事情について書かれており、インターネット関連の話も載っていました。
そこで、その同期に「国際部も海外支社とネットワークを構築して仕事をしているよ」と話をしたところ、「これからはインターネットだよな」と盛り上がりました。その流れで伊藤穰一の話にもなったのですが、彼が「俺、伊藤穰一知ってるよ。紹介しようか?」と言ってくれて。こうした縁から、僕も伊藤穰一が設立に関わったデジタルガレージに出入りするようになりました。
佐藤:デジタルガレージは、デジタル時代に可能性を感じていた伊藤穰一と林郁が共同で設立した会社です。林郁はその前身となるフロムガレージという広告会社を運営していた方ですね。後になってわかったことですが、デジタルガレージは当時、米国のYahoo!を日本に持ってくる話を創業者のジェリー・ヤンと進めていました。結果的にYahoo!はソフトバンクの孫正義を選び、ソフトバンクの傘下でYahoo! JAPANを展開していくことになります。
デジタルガレージとしては、本命のYahoo!を孫正義に取られてしまったので、代わりに当時としては先進的なロボット型検索エンジンを開発していたポータルサイト「Infoseek」を日本に導入する方針に切り替えました。
こうした状況下でデジタルガレージに遊びに行くと、バイリンガルで20歳前後の若い外国人エンジニアたちが、インターネット技術に深く取り組んでいました。彼らは前述の「富ヶ谷」のウェブサイトを作っていたエコシスのメンバーでした。エコシスは伊藤穰一の会社だったんですね。
また、デジタルガレージには日銀出身の中村隆夫氏がCFOとして参画していて、当時ニュースにもなりました。同氏は後に伊藤穰一と共著で『デジタル・キャッシュ: eコマース時代の新・貨幣論』という本を出版しています。「こいつらなんだかカッコいいな、未来を切り開くワクワク感が満載だな!」と強く心惹かれましたね。
佐藤:一方で、デジタルガレージに行った後に旭通信社に帰ってくると、インターネットに対する感度がどうにも鈍いわけです。最先端のデジタルガレージと、社内の空気とのギャップを強く感じてしまいましたね。
コンペに負けてAppleのチームが解散に
佐藤:インターネットに対する期待感を膨らませつつも、僕はAppleの仕事をさらに大きくしたいと考えていました。そんな中、Appleの意向で大手総合代理店を交えたコンペをすることになり、氏家さんに依頼してアップルコンピュータのアニメCMを作ってもらいました。その時のプレゼンは、現場の担当者にはとても好評だったのですが、結局は大手の広告代理店に持っていかれてしまい……。1994年の年末には、旭通信社のAppleのチームは解散することになってしまいました。
次回は12/12(木)公開予定(隔週木曜日更新)です。
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