宇多田ヒカルの「Fantôme」はなぜ大ヒットしたのか、2年間のマーケティング戦略に学ぶ
「音作り以外のすべてを行う宣伝担当として宇多田ヒカルに関わってきた」と話すのは、ユニバーサルミュージックの梶望氏。国内外で高い評価を得ている宇多田ヒカルの新作アルバム「Fantôme(ファントーム)」だが、ヒットの裏には綿密なマーケティング戦略があった。
Web広告研究会の2016年11月月例セミナーは、「宇多田ヒカル『Fantôme』のマーケティングを通して見えた、今、戦略構築に必要なこと」と題し、宣伝担当の梶氏が、約2年にわたり実施してきたマーケティング戦略を語った。
ライバルの登場が宣伝戦略のきっかけに
6年半ぶりに復帰した宇多田ヒカルが、2016年9月28日発売の新作アルバム「Fantôme」で自身初のオリコン4週連続1位を記録した。このアルバムのマーケティング戦略を一手に担ったのが、宣伝担当の梶氏だ。
自分は音楽のことしかわからず、音楽業界の話を中心にさせてもらう。他の業界の人であっても、成功事例には何らかのヒントがあると思っているので、今日の話で何らかの気づきを得て帰っていただければうれしい(梶氏)
「Fantôme」の発売日は、アルバム収録曲の1つが朝ドラ「とと姉ちゃん」の主題歌であることから、ドラマの最終回に間に合わせる形で9月28日に決定した。だが、前日の27日にEXILEの15周年記念アルバムの発売が決まった。強力なライバルが突然登場した形だ。
しかし、「強力なライバルの登場によって大きな目標ができたことが、さまざまな宣伝戦略を考えるきっかけになった」と梶氏は説明する。
最近の音楽業界は、CDに特典を付けることが当たり前になりつつあるが、宇多田ヒカルはファーストアルバムから一貫して特典を付けない方針だ。ライバルとは異なり、ファンクラブ組織などもない状況で戦わなくてはならなかった。
世代によるコミュニケーションの違いと「時間」という価値
マーケティング戦略を紹介するうえで、梶氏は若者の音楽消費について語る。
ガラケー世代とスマホネイティブ世代では、コミュニケーションに違いがあると感じていると言う梶氏は、ガラケー世代を「コレクション・リニア」、スマホネイティブ世代を「アクセス・シェア」と定義する。ガラケー世代は情報をリニアに受け取るのに対して、スマホネイティブ世代はアクセスしてソーシャルメディアなどからシェアした情報を受け取る。
このコミュニケーションの違いは、音楽の聞き方にも影響している。ガラケー世代はCD購入やダウンロード販売を利用するが、スマホネイティブ世代は聞きたくなったときにYouTubeなどの動画共有サイトで聞くというのだ。つまり、所有する世代と、所有しない世代に分かれる。
所有する世代と所有しない世代ではコミュニケーションが異なる。こうした世代間の違いはどのような業界でも生まれているため、世代ごとにセグメント化して探ることで、意外なヒントが見つかると梶氏は説明。これらのヒントについて業界を超えてシェアしていきたいと続ける。
音楽業界のもう1つの課題は、音楽に無関心な層が増えていることだ。電車の中で音楽を聞いている人の姿は減り、現在は動画やゲームを楽しんでいる人が多い印象があると梶氏は話す。
日本レコード協会のユーザー調査では、音楽無関心層は全体で34.6%、自分の趣味嗜好がはっきりとする40代以上では無関心層がより多くなっている。
音楽業界にかかわらず、ユーザーがお金を払ってくれる価値基準は「時間」だと梶氏は話す。たとえば、ソーシャルゲームの課金は時間を買っていることになり、CDに付属する握手券もアイドルと握手できる時間を買っていることになる。
そして、音楽無関心層は「音楽に時間をかける価値がない」と考えている人たちだ。そのため、梶氏が第一に考えたのは、「音楽には時間をかける価値がある」という時間を基軸にした価値創出だった。特典などがなくても、宇多田ヒカルが作る楽曲そのものに価値があり、「その楽曲とともに過ごす時間に価値がある」と伝えることが重要なポイントになる。
余白を残したプロモーションでシェアを生み出す
90年代後半から2000年頃は、テレビのスポットCMを出せば情報が伝わりある程度の成果が出せたが、今はPRしても伝わりづらくなっていると梶氏は話を続ける。シェアしてコミュニケーションする世代に訴えるには、ソーシャルメディアやデジタル上で語ってもらう必要がある。
そして語ってもらうには、コンテンツの見せ方に余白を残すことがポイントだという。昔からクチコミで広がることはあったが、ソーシャルメディアの登場で情報の経路や拡散の仕方が変化した現在、語らせるためには、すべてをタネ明かしするのではなく、「?」と感じる余白を残すプロモーションが重要だというのだ。
「Fantôme」のプロモーションは、足掛け2年ほどかけて行われていたが、世間に最初に大きく露出したのは2016年4月の朝ドラ開始と、ニュース番組のエンディングテーマとしてアルバムの1曲が流れたときだという。それから9月の発売日までに、どのように余白を残すプロモーションを実践していったのか、梶氏は説明する。
まず、前述のように宇多田ヒカルの楽曲の価値を知ってもらい、その楽曲を聞くことの価値を見いだしてもらうため、梶氏は宇多田ヒカル本人にフォーカスを当てるのではなく、ニューアルバムのコンセプトでもあった彼女の声と歌詞にフォーカスすることを考えたという。朝ドラとニュース番組のタイアップを決めたのも、声と歌詞を理解して共感してもらえる、教養の高い層が視聴する番組でのオンエアが必要と考えたからだ。
また、6年半ぶりに復帰するとなると、すぐ本人にフォーカスが集まりすぎることになると説明する梶氏は、徐々に楽曲を温めていくことを目的とした「NEW-turn Project」を公式サイト内に立ち上げた。
同サイトでは、ハッシュタグ付きのつぶやきや楽曲ダウンロード、有線リクエスト、カラオケでの選曲など、アクションがあるたびに枯れ木の桜が満開になる仕掛けがされた。連携の対象を新曲に限定しなかったのは、宇多田ヒカルの楽曲の良さを再認識してもらうため、楽曲にフォーカスして会話をしてもらうことが狙いにあったからだ。
タイアップ後のタイミングでプロモーションビデオを公開したという梶氏は、このプロモーションビデオでも声と歌詞にフォーカスするために、あえて本人を登場させず、タイアップ番組のイメージに合うように制作したと説明する。
これらのPVをシェアさせることで、話題を楽曲に集中させることができたと梶氏は話す。また、PV公開とともに「Fantôme」の歌詞特設ページを開設し、曲名をハッシュタグでつぶやいたツイートを表示させることで、より声と歌詞についての会話を広げようとしている。
徐々に露出していくことでエンゲージメントを高める
ここまで楽曲にフォーカスしてプロモーションしてきたが、ファンの間からは本人の登場を望む声が出てくる。
これに対して梶氏が次に仕掛けたのが、「#ヒカルパイセンに聞け」というQ&Aサイトの開設だ。Twitterで募集したファンの質問に宇多田ヒカル本人が答えているが、ここでも本人のビジュアルは登場していない。それでも、楽曲が浸透していくなか、本人がテキストで登場することによってファンの待望感を満たし、バズを形成できたという。
梶氏が本人のビジュアルを登場させたのは、アルバムが実際に発売される9月に入ってからだという。アルバム収録曲のなかでも、最も売れている楽曲の本人映像バージョンのPVを公開したが、映像はシンプルに本人が歌う姿を映したものにした。また、スマートニュースの広告向けに縦型動画も作ったが、セルフィ(自分撮り写真)のように、本人が歌う姿を大きく映した映像にすることで反響を呼んでいる。
視聴するデバイスやプラットフォームによってユーザーとの距離感は異なる。スマートフォンの場合は、視聴者の生活動線と近い距離感のセルフィー的なクリエイティブにすることで成功したと梶氏は説明する。さらに、360度で見ることができるPVのメイキング映像も公開し、最新技術を使うことで会話や話題が広がるようにしたという。
続いて梶氏は、アルバムに参加している3名のコラボアーティストの発表を行い、PVなどを公開していった。椎名林檎、KOHH、小袋成彬という、コアなファンがいるアーティストを起用することで話題を呼んだ。
復帰後初のテレビ出演にあわせた限定PV
宇多田ヒカルがようやくテレビ出演したのは、アルバム発売の9日前となる2016年9月19日の「MUSIC STATIONウルトラFES」だ。この番組では、「過去にリリースしたヒット曲を歌う」という縛りがあったため、宇多田ヒカルは映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の主題歌となった「桜流し」を歌っている。
ここでも梶氏は話題を盛り上げるために動き、ヱヴァ映画制作チームにオリジナルのPV制作を依頼。9月19日の当日限定で公開し、コアファンの多い映画との連携でバズを加速させた。
さらに、「MUSIC STATIONウルトラFES」で宇多田ヒカルが歌った直後、本人が登場するサントリーの南アルプス天然水のCMが流された。このCMはティザー広告となっており、音楽は流れず、宇多田ヒカルが水を飲んだ後にサントリーのロゴが表示されるだけの映像だったが、より話題を広げたと梶氏は説明する。
CM本編は4日後に公開されているが、こちらもナレーションを入れず、楽曲に集中できるようなクリエイティブとなっており、楽曲の価値と製品のブランディングの両方を向上させることに成功したと梶氏は話す。
アルバム発売日には、公式サイト内に「花束を君に贈ろう」特設ページを開設し、朝ドラの主題歌となっていた「花束を君に」の曲にちなんで、大切な人に花束を贈った時の写真・動画を募集。写真や動画を使ったPVを公開して、ユーザー生成のコンテンツによるバズの促進を狙っている。
「語らせるためには、余白を作ると同時に文脈を作ることが重要だ」と話す梶氏。さまざまな設計を行ってきたが、難しいことを考えていたわけではなく、フォーカスをぶらすことなく積み重ねていったと説明する。
屋外広告は会話のきっかけ、バズを生み出す積み重ねの1つ
続いて梶氏は、アルバム発売日が近い強力なライバルの「EXTREME BEST(EXILE)」とどのように戦ってきたのかを説明する。相手は現役かつ人気アーティストのベスト盤、ロイヤルティの高いファンが付いており、DVDなどの特典も付く。対して宇多田ヒカルは長期休養から復帰したばかり。ファンクラブも、購入者特典もない。
そうしたなかオリコン1位を獲得できた理由について、梶氏は語らせる手法によるプロモーションを展開し、アプローチしてきたことを説明する。
「自分としては、O2Oはオフラインできっかけを与えて、オンラインでバズを生み出す積み重ねだと考えている」と述べる梶氏は、極力シンプルにすることが重要だと説明。梶氏が企画したのは「宇多田ヒカル Fantôme」という情報だけで発売日も示していないCMや広告のクリエイティブだった。
同様に中吊りやビルボード広告についても、情報を詰め込まずに、ジャケット写真と名前、アルバム名しか載せなかった。ここにも「0.5秒くらいの接触時間ではトリガーにしかなりえない。会話のきっかけとなるビジュアルやキーワードを載せるだけでいい」という梶氏の狙いがあった。
また、渋谷のルミネ全館を「Fantôme」でジャックしていったと話す梶氏は、渋谷マルイのビルボードやTSUTAYA、タワーレコードでの店頭展開など、渋谷の東側を広告で埋めていき、109と逆方向のブランディングで差別化していたという。
さらに、地方でも多くのファンを獲得しているライバルに対抗するためには、関東で圧倒的に勝つ必要があったと梶氏は話す。関東を中心としたブランディングを徹底的に行い、「Fantôme」発売直後の販売の4割弱が関東だったことを明かす。関東で受け入れられることによって、地方にも情報が伝わり、次第に地方の売り上げも伸びてきているという。
ネット広告はタイミングを見極めて効果を高める
ネット広告は有効かという話題に移った梶氏は、ネット広告はタイミングをしっかり図れば有効だと話す。ネット広告は加速装置であるというのが持論だと話す梶氏は、テレビスポットのようなメディア的な価値はネット広告にはないと語る。
ネット広告は、「トレンド」と「デジタル広告」の掛け合わせによって、「費用対効果」が高くなるというのだ。つまり、ポジティブなトレンドが伸びているタイミングでネット広告を出すと、購買意欲を効果的に高められる。
ただし、どのトレンドに乗ってもいいわけではなく、自身の作品やコンテンツの文脈につながったトレンドを選択する必要があるという。文脈に沿ったトレンドを作っていく積み重ねのなかで、テレビで印象的な露出があった時など、ソーシャルメディアにおける動きが急上昇するタイミングがあると梶氏は話し、音楽業界では、そのタイミングでネット広告を打つことで売り上げを伸ばせるという。
ただし、これらは音楽業界の仮説であるため、Web広告研究会で掘り下げてほしいと梶氏は述べる。
狙ったターゲットにテレビCMを見せる
Fantômeのプロモーションでは、テレビCMも効果を上げているが、やみくもに露出しては費用対効果が落ちてしまう。そこで梶氏は、「宇多田ヒカルを好きな人の9割は、1~2つ以上の宇多田ヒカル作品を持っている」というリサーチ結果と、視聴率の高い朝ドラのなかでも、特に50才以上の女性の視聴率が高くなっていることに着目。
また、若者のテレビ離れが話題となっているが、若者がテレビを見ていないのではなく、リアルタイムで見ていないだけだと年齢別の視聴率を示し、シェアされた面白い部分だけを切り取ってスマートフォンなどで見ているか、録画して見ていると仮説を立てる。そのため、若者に対するテレビ自体の影響力はまだまだあるが、テレビのスポットCMには接触できていないのではないかと梶氏は考察する。
これらの分析から、梶氏はセグメントを「宇多田ヒカルが好き」なグループと「とと姉ちゃんをリアルタイムで3回以上見ている」グループに定め、その2つのセグメントの視聴率ヒートマップを出し、より効果的にスポットを出せる番組を選んでいったという。
その結果、発売後の購入きっかけのアンケートでは、「タイアップ」「音楽番組」に次いで、「CD/DVDのスポットCM」と回答した割合が9%と比較的高く、狙ったターゲットに接触できたという。
国内のヒットを狙ったFantômeが海外でも売れた理由
「Fantôme」のヒットは国内だけにとどまらず、全米iTunesチャートで初の3位にもランクインしている。しかし、「Fantôme」は日本語歌詞の楽曲アルバムであり、最高の邦楽を作ることを目指して声と歌詞にこだわっていたため、海外で売れることは狙っていなかったという。
特典を付けることでしか楽曲が売れなくなって閉塞感がある音楽業界で、Fantômeが売れなければ音楽業界を辞めることも考えていた。そんななか全米チャートで3位になったことは、非常に興味深く、自分の希望の光となった(梶氏)
全米でのヒット理由について、宇多田ヒカルが海外で人気が高いSQUARE ENIXのRPG「キングダムハーツ」のタイアップ曲を手がけていたこと、過去に全米進出していたことを挙げ、コアファンが残っていたのではないかと梶氏は分析する。一方、旧来の海外ファンの存在だけでは、米国以外の国でも1位を獲得し、チャートインしている説明が付かないため、「YouTubeでファンが形成していたのではないか」と梶氏は結論を述べる。
実は、宇多田ヒカルが6年半前に活動を休止したとき、これまでのシングル曲をフルで公開してほしいという本人の希望があり、YouTubeの公式チャンネルを作り公開していたのだ。この6年半の間に海外からのコメントも増え、ファンが形成されていったのではないかと梶氏は説明する。
一方、「Fantôme」の制作コンセプトは最高の邦楽として国内展開を想定していたため、新曲の映像は国内サービスのGYAO!でしか公開していなかったのだが、これが結果として海外ファンの購入意欲につながり、iTunesのチャート入りにつながったとも分析する。
これまで海外進出するには英語で歌い、現地でプロモーションすべきだと考えていたが、良いコンテンツは言語を問わない。ピコ太郎のPPAPの例もあるように、シェアされる土壌があることでグロースハックが促されるということが興味深い。昔、ミュージックチャンネルのMTVが生まれてプロモーションビデオが広がり、ヒットの構図が変ったように、国内のコンテンツをアウトバウンドするには、ストリーミングが国境を越えていることを念頭におかなくてはならない。我々が思っているよりも海外の人はボーダレスになっていることを気づかされた(梶氏)
講演の最後、今回のプロモーション戦略を通じて、優れたコンテンツは言語にとらわれず世界に広がっていくことに気づいたと、梶氏は語った。
Web広告研究会サイト掲載のオリジナル版はこちら:『宇多田ヒカルの「Fantôme」はなぜ大ヒットしたのか、2年間のマーケティング戦略に学ぶ』2016年11月7日開催 月例セミナーレポート(2017/01/23)
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