50歳目前、選んだ道は日立からDNPへの転職。Web・宣伝からDNPのブランディングを見直す
今回の主役は、日立製作所から大日本印刷(以下、DNP)に転職した西田 健氏。期待されているのは、DNPのWebを含む宣伝、コミュニケーション活動の一新だ。
日立製作所では、製品広告、企業広告、マス媒体購買、販促、イベントなど、宣伝広告関係の一通りの業務を経験してきた。入社5年目のときには、当時所属していた事業部のWebサイトをゼロから自前で制作し公開した。50歳を目前に、自分のこれからを考えたとき、もっとチャレンジをしたいと考えた。
大企業で培ってきたWebや宣伝の経験を、他の企業で活かせるのではないか
DNPに入って約半年。前途多難ではあるが外からの風として、DNPの技術や製品、歴史などをうまく伝えていくためのコミュニケーションを模索中だ。そんな西田氏にこれまでのキャリアについて話を聞いた。
聞き手:株式会社ツルカメ 森田 雄氏と株式会社イマジカデジタルスケープ 林真理子氏。写真:鹿野宏氏。
Webが一般に普及してすでに20年以上が経つが、未だにWeb業界のキャリアモデル、組織的な人材育成方式は確立していない。組織の枠を越えてロールモデルを発見し、人材育成の方式を学べたら、という思いから本連載の企画がスタートした。連載では、Web業界で働くさまざまな人にスポットをあて、そのキャリアや組織の人材育成について話を聞いていく。
インタビュアーは、Webデザイン黎明期から業界をよく知るIA/UXデザイナーの森田雄氏と、クリエイティブ職の人材育成に長く携わるトレーニングディレクター/キャリアカウンセラーの林真理子氏。
ラジオ少年から日立に入社、勝手に日立のWebサイトを立ち上げる
林: 西田さんがWebにふれたきっかけから教えてください。
西田: 私は元々ラジオ少年でして、小学生のときは毎週のように秋葉原にパーツを買いに行っては、自分で組み立てるのが好きな子どもでした。1980年代にパソコンが店頭に並び始め、パソコンは買えなかったので、店頭のデモ機を勝手にいじっていました。中学生のときに親から富士通のFM-7(パソコン)を買ってもらい、夢中になりました。私と同年代で、同じような経験をした方は、きっと多いと思います。
パソコンや機械は好きでしたが、数学ができずに進学は文系に。大学を卒業後は、「電機や製造業界がいいな」と思い、電機メーカーを中心に就職活動をしました。マスコミ系に進む友人に刺激を受けて広告代理店も受けましたが、最終的に「メーカーで宣伝をやれたらいいな」ということで日立製作所(以下、日立)に入社しました。
林: 日立ではWebとどんな関わりだったのでしょうか。
西田: 日立に入社したのは92年。数年してからインターネットが一般に普及し始めました。パソコン好きということもあり、95年に日立のある製品事業部のホームページを作りました。今では信じられないかもしれませんが、私が勝手に作り、誰の承認も得ずに公開していたんです。販促の部署にいて写真素材や会社に関する情報は周囲にあったので、事業部紹介、研究所紹介、採用情報などを、担当者に話を聞いたり依頼を受けたりして、勝手に作文して掲載していました。
林: え! 勝手にですか(笑)。
西田: はい、そうなんです。自分で直接HTMLを書き、毎日ガリガリ作っていました。Photoshopを使って写真加工もしました。99年頃まで勝手にやっていましたが、その頃から本職の宣伝業務が忙しくなり、異動などもあって手を離れました。
2000年に「Webサイトをちゃんと作ろう」ということになって、計画を作って上の人に説明し予算もついて、専任の派遣社員を雇うようになりました。2000年は日立がブランド戦略による経営を宣言した年でもあり、日立ブランドとして統一したコミュニケーションをすることになり、Webはその重要な柱の一つとして進めることになりました。
そして、ブランド戦略のメンバーを中心にして、日立で初めてのWebのガイドラインを2003年に作りました。そのとき私はWebに関わっていなかったのですが、関わりたい気持ちがずっとありました。念願が叶って2004年に合流して以降、退職する2017年まで日立のWebに関わり続けていました。
更新されないガイドラインは「負の遺産」
森田: 僕も前職のビジネス・アーキテクツで、2000年からさまざまな企業に対して、ガイドラインの提案や制作を行っていましたが、これは当時、画期的なことでもあり、重宝されていました。しかし、この年代に制作されたガイドラインが、その後更新されずに「負の遺産」になってしまったという企業もありましたね。
たとえばガイドラインで決められた「ヘッダー、フッターをつける」とか、ページ幅や対応ブラウザなどを守りたくないから、「別のドメイン上で展開する」といった抜け道も横行しました。ガイドラインはたいてい「このドメイン名を対象とする」と対象範囲が記載されているので、「それ以外のドメイン名ならガイドラインの対象外だから自由に作っても良い」という発想ですね(笑)。
西田: 日立の場合は、2003年に初めてガイドラインを作った後、2007年、2014年にガイドラインの改訂とWebサイトのリニューアルを行っているので、ガイドラインが足かせになることはありませんでした。しかし、DNPがまさにそのガイドラインのジレンマで、2000年代前半に制作されてから更新されていないのです。
森田: それぞれのドメイン名で制作してしまったWebサイトを整理してみると、ドメイン料やサーバー維持費などでとんでもない金額がかかっているということもありました。Webガバナンスが注目されるようになったのには、こうした理由も大きいですよね。
西田: 日立では、そのドメイン管理やガバナンスに関して、わりと早い時期の2005年ぐらいから取り組んで経験してきました。
林: 西田さんは、ガバナンスやWebの知識などをどのように獲得してこられたんですか?
西田: もともとラジオ少年、パソコン好きだったことから始めたので、「学ぶ」という意識はなかったです。コンサルティング会社さん、制作会社さんと一緒に仕事を進めていく過程で、新しい概念や技術を説明してもらいながら、自然と知識が身についていったところもあります。
林: 良いパートナーとの仕事のやりとりが、そのまま血肉になっていったんですね。
Webの予算がある・ないが人材育成にも影響している?!
林: Webのお仕事は楽しかったですか?
西田: 業務の歴史があり、昔からルールがガチガチに決まっている宣伝の世界に比べて、Webの場合はルール自体を作っていけますし、新しい技術や考えがどんどん出てくるので、とても楽しかったし、私にぴったりだと思いました。技術革新に合わせて毎年、優先順位を考えて、予算をとって取り組んでいくのはやりがいがありました。
Webが宣伝部内の部署だったこともあり、予算も比較的取りやすかったこともよかったです。コンサルティング会社さんと、夜中までユーザビリティについて議論したりしたこともありましたね。
林: Webは常に進化してきましたし、アンテナを張って常に新しい課題を設定してこられたんですね。実際には役員を相手に予算取りをするなど、相当ハードな仕事だったと思いますが、難しい課題をやりがいあるチャレンジとして、ポジティブに解釈してこられたのが西田さんの通底する強さなのでしょうね。
ところで、最初は手作業で制作していくことが楽しかったということですが、そういう仕事から離れるのに抵抗はなかったですか?
西田: 主任から管理職に役職が上がるにつれて連れて求められる役割が変わりますので、抵抗なく手を離れました。ラジオ好きから始まって、デザイン、コーディング、画像加工を自分でやって、さらにアクセス解析、マーケティング、宣伝、マスコミュニケーション、ブランドまで担当してきました。
デジタルもマスも、一通りじっくりやった経験があり、両方がわかることは大きいですね。サイトの更新では、私が最終承認後に公開するという決まりだったのですが、たとえば「緊急で画像の差し替えをしなければいけない」ということも日々の業務の中で出てきます。一通りやった経験があれば、その差し替えが「15分でできるものなのか、数時間かかるものなのか」という判断ができます。
森田: メンバーとしても、「もし全員が倒れても西田さんができる」といった安心感がありますよね。西田さんのように、全部の工程をできるような人材育成が課題ですよね。
西田: そうですね。一通り経験しているからこそわかることはあります。先に言った工程に関してもそうですが、ゴールを達成するのに「Webとマスをどう活用していくべきか」ということも、デジタルとマスを両方経験しているので全体の計画を立てられますし、ある程度予測もできます。しかし、そういうことをバランスよく推進し判断できる人材が非常に少ないのは事実です。個々の分野の専門家はいますが、マス広告、デジタル、マーケティング、ITなどの分野がわかるバランスのとれた人材を育成するのは難しいですね。
林: 日立時代に、そうしたバランス人材の育成を試みたことがあるのですか。
西田: 企業Webサイトに軸を置きながらマーケティング全体を設計できる人材を育成しようと思って、Web・コミュニケーション・ITなどを教えた部下がいたんです。それこそ自席の隣に座ってもらい「一から教える」という感じです。
でも、マス宣伝に行ってしまったんです……。私は企業Webサイトのディレクターという職種が好きなんですが、Webの仕事は魅力がないんですかね。
森田: 制作会社でもデザイナーやエンジニアに比べると、Webディレクターは人気がない印象があります。楽しさを伝えられてなかったり、どこか中途半端な印象があったりするのかもしれませんね。
西田さんは宣伝部内でWebの仕事をしていたこともあり、それなりに使える予算があったということですが、会社によっては「そもそもお金がない」ということが多いはず。そうなると「できることの範囲」が変わってしまいますからね。
西田: まったく同感です。お金があることは、とっても重要だと思います。
50歳を目前に今までの経験を生かすことにチャレンジ
林: 若い世代だと「お金を使って新しい取り組みをする」という楽しさを知らない、考えたことすらない、という人も多いのかもしれません。
西田さんは環境もよく仕事も楽しかったのに、なぜ転職を決めたのでしょうか。
西田: 日立では、ある程度の年齢になるとグループ会社への出向となるケースが多いんですね。自分の上司がグループ会社に出向になったときに、「次は自分かな」と思いました。グループ会社に行くと、できる範囲が狭くなったり仕事が変わったりすることもあります。裁量範囲が広がる面もありますが、せっかくの今までの自分の経験が生かせないかもしれない。そこで「今までの経験をさらに活かすには」と考えるようになりました。
また、2014年にWebのリニューアルをした後、講演の依頼や取材を受ける機会が増えたのですが、その頃からいくつかの会社から転職のオファーが来るようになりました。同世代で事業会社に勤めていたWeb担当の方が、新しい会社に転職していったことにも触発されました。
森田: デジタルもマスもトータルでわかる人材って少ないと思うんです。それこそ個人で企業コンサルタントをやるというような選択肢はなかったのでしょうか。
西田: 最初はそれも考えましたし、やりたいと思いました。しかし、正直に言えば体力的に自信がなかったんです。自分で営業をやって、経理もやらないといけないわけですし。それならば、組織に属して今までの経験を活かせる方向のほうがいいと考えました。
ちょうどそんなことを考えているときDNPの方からお誘いをいただき、転職を決めました。今年で50歳になりますから、転職するなら最後のチャンスかな、と。それでも十分遅すぎですが(笑)。
新天地・DNP。「外からの風」だからできること
林: DNPではどんな役割を担っているのでしょうか。
西田: コーポレートコミュニケーション本部に所属して、Web、デジタルを中心に宣伝、ブランド戦略など広範囲にアドバイスをしています。上司からは「おかしいことがあれば、なんでも言って欲しい」と言われています。
森田: 社内コンサルタント的な立ち位置ですね。「外からの風」ということになりますが、煙たがられるようなことはありませんか。
西田: 煙たがっている人もいるでしょうね(笑)。DNPの場合は、お話ししたようにガイドラインの問題を始め、日立の感覚から正直に言うと、一周以上の周回遅れのような状況だと感じます。
「大変だよ」と言われて転職を決めましたが、入社して半年、想像した以上に大変だと痛感しています(笑)。でも、やれることがたくさんあるので、大きな変化をもう一度経験できるかもしれないことは楽しみです。
林: 日立で経験した大きな変化とは?
西田:日立の場合は、2008年から2009年に7,800億円という大赤字に転落し、社内が大きく変わったと思います。
「照明が消される、新聞購読をやめる、文房具や消耗品が買えなくて不自由する」という小さい変化から、「社長が変わる、グループ企業を売却する、リストラをする」という大きな変化まで経験しました。すべて負の変化でした。でも、その変化によって社員全員が危機感を持ち「なんとかしなければ」と必死になり、そのおかげで黒字に転換したのだと思います。
一方、大日本印刷は、今まで基本的には堅調な経営状態で、浮き沈みも少ない。でも、これから印刷業界がどんどん栄える産業かというと、そうではありません。なのに、DNPには私が日立で経験したほどの緊迫感は感じられないのです。こんなことを言うと、怒られそうですが(笑)。
浮き沈みが少ないことは「良いこと」である一方で、「変化への対応力が鈍っているのではないか」と強く感じます。でも、そういった状況に危機感を抱いている若手社員がいることもわかってきました。そういう若手から相談を受けることもあるので、自分をうまく使って変えていってもらいたいです。
自分もそうでしたが、同じ環境で長く働いていると「自分の会社のやり方が当たり前」だと思いがちですが、「他の世界もある」ということをまずは伝えたいです。
仕事の量をこなすことで見えてくる世界もある
林: 若手の人へ伝えたいことはありますか?
西田: 昨今の働き方改革の流れを否定するつもりはまったくありませんが、「仕事でも勉強でもある程度の量をやった経験が大事だったな」と自分の人生を振り返って感じます。一番仕事をしていた時期は、仕事の時間はもちろん、それ以外のプライベートな時間も、寝ても覚めてもずっとWebのことばかり考えていました。でも、それが全然苦ではなかった。仕事の後は楽しく過ごすことだけでなくて、自分の勉強のために使うということも必要だと思います。
森田: 僕も過去に5年間くらいすごく働いた時期があって、休日もなくずっと働くような感じでしたが、自分で実感できるほど、ストックが増えて成長できました。やった仕事や勉強の蓄積は確実に手元に残りますからね。
西田: 一流の人、Webやデジタル業界の人、他の業界の人の話を聞くだけでも、知らない考えに触れて脳が活性化されます。これからは若い人を連れて、Web広告研究会(公益社団法人 日本アドバタイザーズ協会)などにも行こうかなと思っています。
黒子から表舞台に。DNPのブランディングを再構築
林: 最後にDNPで実現したいことを聞かせてください。
西田: DNPは印刷だけでなく、いろいろな素材・部材や情報セキュリティ、メディア開発など、幅広い製品・サービスや技術を持っている会社です。しかし、本業が印刷業であるだけに、表に出たがらない。受注産業に慣れきってしまっていて、黒子の存在でいたがるんですね。
技術があるのにそれを活かして商売にしようという気概が少ないので、そこをDNPとしてブランドを確立し、世の中の人に知ってもらうようなことができればいいですね。直近では、Webのリニューアルを予定しているので、まずはそこからです。
――ありがとうございました。
編集後記: 二人の帰り道
林: これだけグローバルに大規模サイトのガバナンスを統括してこられた方とあって、お会いする前は気が張っていたのですが、実際お会いしてみると「私は元々ラジオ少年でして」と始まって、すーっと緊張が解けました。
「社外コンサルタントも格好いいなぁと思ったんですよね」とか「宣伝部とか楽しそうだなぁと思って」とか「楽しかった」「大変だった」「おもしろかった」「自信がなかった」と、西田さんの発言には素朴な言葉が合間にぽろぽろ入りこんでくるんですよね。
自分を大きく見せようとも、小さく見せようともしない言葉選びに触れて、こうした素直さのようなものが西田さんの確かな歩みを支えてこられたのだろうと勝手に感じ入ってしまいました。今見えている仕事のおもしろさや安定に固執せず、柔軟に組織や市場・社会の求めをキャッチアップして自らの役割をシフトさせてきたキャリア話も魅力的でした。
森田: Webの黎明期から大企業のデジタルマーケティングに直接関与してきたという経験が何よりも大きいなと感じました。僕もまさしく、パソコンとかWebが趣味で、それがそのまま仕事になって今に至っているので、西田さんのラジオ少年の好奇心がそのままインターネットに溶け込んでいったという感覚に小気味良さを感じたし、そういう環境が手元にあったら何でも自分でやっちゃうだろうなあと共感しました。
西田さんのようなキャリア形成は、いわゆるジェネラリストのタイプになると思います。仕事も勉強もある程度は量を積んでいく必要があるといっても、今は黎明期のように前提としての混沌さや自由さがあるわけではないですから、組織としてそういう状況になるような工夫をしないといけないかもしれませんね。
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