森田雄&林真理子が聴く「Web系キャリア探訪」

離島と東京の二拠点生活をするデザイナー「キャリアを拓くきっかけは、いつもごく身近なところに」

東京と長崎県・壱岐島の二拠点生活をしながら、デザイナーとして働くウジトモコ氏にこれまでのキャリアを伺った。

「1990年代後半、自宅にサーバーをたてていなければ、ずっとコンピュータは嫌いだったと思います。私にとってWebが生存戦略となりました」

こう語るのは東京と長崎県・壱岐島の二拠点生活をしながら、デザイナーとして働くウジトモコ氏だ。子育てをしながら仕事をするため、サーバー環境を自宅に構築。90年代後半にはすでに、自宅からオンラインで仕事をできるようにしていたという。講演や出版など、セルフブランディングも際立つウジ氏に、これまでのキャリアについて伺った。

Webが一般に普及してすでに20年以上が経つが、未だにWeb業界のキャリアモデル、組織的な人材育成方式は確立していない。組織の枠を越えてロールモデルを発見し、人材育成の方式を学べたら、という思いから本連載の企画がスタートした。連載では、Web業界で働くさまざまな人にスポットをあて、そのキャリアや組織の人材育成について話を聞いていく。
インタビュアーは、Webデザイン黎明期から業界をよく知るIA/UXデザイナーの森田雄氏と、クリエイティブ職の人材育成に長く携わるトレーニングディレクター/キャリアカウンセラーの林真理子氏。

ライフステージの変化がキャリアを拓くきっかけに

戦略デザインコンサルタント/アートディレクター ウジトモコ氏

林: 現在は、壱岐島と東京の二拠点生活をするウジさんですが、キャリアのスタートは1980年代、東京からですよね?

ウジ: 多摩美術大学でグラフィックデザインを学びました。卒業後は、電機メーカーの制作部に就職。当時はバブル期だったこともあり広告費用が潤沢で、有名な写真家と仕事をするなど、華やかな職場でしたね。新卒ながら自分がデザインしたロゴが採用されたり、カタログを作ったりと仕事も楽しかったですし、印刷工場の現場に行くことも勉強になりました。ところが、会社の習わしでひと通り他の部署も回らなければならず。「次は営業部に行ってください」と言われて、会社を移ることにしたんです。

林: 大手で新卒社員のジョブ・ローテーションは一般的でしたが、美大卒の制作部配属であっても、そうだったんですね。

ウジ: 退職するタイミングで、広告代理店から独立した方から声をかけてもらって、その方が作ったプロダクションに入社しました。広告キャンペーンのアシスタントをしたり、広告代理店の下請けでコンペに参加したりと充実していましたが、広告の仕事だけでなく、アパレルやブランドの仕事にも関わりたかったので、少人数の制作会社に転職。その頃、Macintosh(マッキントッシュ)が出てきて、私もIllustrator(イラストレーター)などのDTPに触るようになりました。スムーズにデジタルに移行できたのは、印刷工場や職人さんの仕事場などに足を運んでいた経験が活きたからだと感じています。たとえば、入稿する前の版下にエアブラシをかける作業を見ていたので、Photoshop(フォトショップ)のブラシ機能は、なんてラクなんだろうと思いましたし、レイアウトスキャナーを見ていたので、画像の補正やカラーフィルターの意味もすぐに理解できました。仕事は順調でしたが、でも今度は妊娠して会社を辞めることに。

林: 女性が長く勤めるのは大変な時代でしたよね。まだ当時は結婚や出産を機に女性が退職する流れが残っていましたし。

ウジ: はい。「お母さんというアイコンはデザイナーとは重ならない」と社長に言われまして。これが強烈に私の中に刻み込まれ、「デザイナーとしてのイメージを保たなければならない」と、今でもトレーニングに励んでいますよ。

90年代後半に自宅にサーバー構築し、オンラインで仕事ができる環境を整備

森田: 出産で退職した後に、独立という流れですか?

ウジ: そうですね。自宅でも仕事ができる環境を作ろうと思って、タワー型MacのMacintosh Quadra(マッキントッシュ クアドラ)と、サーバーのCobalt Qube(コバルト キューブ)をローンで購入して、自宅にネット環境を構築しました。Webの仕事をするためというより、納品物を届けるために。タクシーに乗って相手の会社まで行くより、ラクでしょう。それまでもデータや納品物の搬送のためバイク便に月20万円ほど支払っていましたから、サーバーを買う投資には前向きでした。だから90年代後半のWeb黎明期にはすでに、自宅からオンラインで仕事ができるようになっていて、いま思えばラッキーでした。

森田雄氏(聞き手)

林: 20年以上も前から、そのような働き方をしていたんですね。独立後は、どうやってクライアントを獲得していったのでしょうか?

ウジ: 最初は、以前勤めていた制作会社から仕事をもらっていました。ほかにも、広告代理店に就職した美大の同級生から依頼を受けたり、新卒で入ったメーカーの仕事を手伝ったり。これまでの経験を生かして「広告・ロゴ・名刺・カタログ・Webサイトなどの制作を全部一式請け負います」という受注をできるのが強みになりましたし、当時はまだ若かったので、依頼は断ることはなく、すべて引き受けていました。

森田: Webについてはどうやって学習したのですか?

ウジ: Webを学ぼうとして、専門学校に通ったこともあります。ただ学んでみたらプログラミングは向いていないことがわかりました。コードにミスが多いですし、思いつきで書くのでロジックが整理されていないんです。Webもどんどん複雑化していったこともあり、2010年以降はWebサイト制作などは専門会社に外注するようになりました。あとは、書籍を読んで勉強しました。当時は、ソースコードの入ったCDが付録になっていることが多く、CDがついている書籍はほとんど購入しました。新しいジャンルの技術にも、仕事として向き合ったことで成長できたと感じています。

森田: たしかにあの頃は、書籍を片っ端からあたって勉強していましたね。僕も寝食を忘れるがごとく学習と仕事の境界をあいまいにしてずっとWebと向き合っていたなと思い出しました。

ウジ: そうですよね。たまたまではありますが、20代で自宅サーバーをたてていなければ、ずっとコンピュータは嫌いなままだったと思いますし、結果として、私にとってはWebが生存戦略となりました。

林真理子氏(聞き手)

林: ウジさんはデザイナーの仕事だけでなく、書籍執筆やセミナー登壇、オウンドメディアの発信、団体の理事など、いろいろな活動をされていますよね。セルフブランディングも意識的に展開してこられたのでしょうか? また実際にやってみて、それぞれの活動の意味をどんなふうに捉えていらっしゃいますか。

ウジ: 執筆については、出版セミナーに参加してコンサルティングを受けたのが始まりです。そこで「世の中には言語化されていない、自分しか知らないことがたくさんある。それを惜しみなく書くことに価値があり、きっと誰かの役に立つ」と教えていただきました。私は億単位の広告予算がある大企業から、中小企業の数十万円の予算規模の広告づくりまで幅広く経験してきました。調べてみると、そうした体験で得たことで世の中に言語化されていない領域があり、それを惜しみなくアウトプットしてみたら、それがまた次の発信の機会につながっていったんです。

林: 書籍の執筆行為そのものが、ご自身の身になったところもありますか?

ウジ: ブログでもなんでも文章のアウトプットは実はさほど得意ではなくて……。ただ書籍の場合は、一度書いてしまうと編集者がつっこんでくれるので、そこで見直していくと頭の中のねじれが解消して、新しいことが見えてきます。10万字も書くと、頭に散らばっていた情報が逆に整理されるようになりました。

壱岐島でデジタルデトックスの生活

林: 2年前に移住されたという九州の壱岐島はどんなところですか?

ウジ: 過疎化が進む離島ですが、お米や野菜、海産物ももちろんありますし、黒毛和牛を育てていたり、温泉があったりと生活するには困らない島です。きれいな海がたくさんあります。長崎県ですが、福岡県の博多に近いですね。あと駐車代がとにかくかからない。海辺やキャンプ場はもちろん、スーパーの駐車場も、港の駐車場も、空港の駐車場も全て0円です(笑)。

壱岐島の海の様子

森田: 現在は、壱岐島でどういった仕事をしていますか?

ウジ: 90%以上は東京からの仕事で主にブランディング案件を請け負っています。たとえば、渋谷区にあるバハカリフォルニアのメキシカン料理レストランのブランディングをしています。タコスのセットを送ってもらって、壱岐島の海でバハカリフォルニアの海っぽく写真を撮ってみたり、遠隔ですが、位置情報の機能をつかって都心限定でSNS広告を配信したり。撮影・投稿・広告も担当しています。他には、行政案件で山口県と長崎県のICT教育にも携わっています。たとえば生徒に写真を撮ってもらって、その画像補正として、露出やホワイトバランス、コントラスト、色味などの原理原則を解説し、使い方を伝えています。企業のデザイン研修やオンラインのセミナーも結構依頼がありますね。

林: 東京の案件を中心に、現在も幅広い仕事をされているんですね。島ではどんな生活をしているのですか。

ウジ: 広い庭付きのボロい空き家を買ってしまったので、今は空き家の開墾にハマっています。整地して芝や花の種を植えたり、雑草と戦ったりしてます。ダイビングのライセンスも取りましたし、サーフボードとウェットスーツもとりあえず買いました。私は生まれも育ちも東京で、人生で初めて東京を離れました。壱岐島では、いまだにスマホの電波が届かないエリアがあるんです。東京にいたときは、スマホを忘れることに恐怖感がありましたが、今は別になくても慌てなくなりました。デジタルデトックスですね。でも壱岐島にいるからこそ、東京の良さもわかるようになりました。東京に帰省するのはいつもとても楽しみです。東京のデザイナーさんやエンジニアさんたちには、壱岐島でワーケーションをお勧めしています。

森田: 離れたからこそわかる良さもありますよね。それでは、今後の展望を教えてください。

ウジ: 大学時代に取り組んでいた版画(シルクスクリーン)にもう一度挑戦し、空き家でギャラリーをやりたいです。絵本も作りたいですね! 今までは受託の仕事ばかりでしたが、これからは自分の商品を作りたいです。最近カモミールとかハーブの種を植えてみたら、思いの外うまく育ちまして。たとえば「無農薬で手摘みのハーブティ」とかにしてパッケージ・Webサイトなども自分で作り、販売してみるのもいいかなと思っています。老後の楽しみですね。

本取材はオンラインにて実施

二人の帰り道

自分の「好き」「得意」をうまくブレンドさせて活動を展開し、逆に「合わない」「不得意」はうまく人に任せてチームでやっていくスタイルが、すごく自然で素敵だなって思いました。Webサイトに留まらず広告、ロゴ、名刺、カタログのデザインなどまるっと提案して一手に引き受け、今では包括的なブランディング支援の依頼を多く受けているそう。一方でWebが複雑化していく過程でプログラミングは自身の仕事領域からはずし、得意な人に任せるというふうに移行。市場変化にあわせて、また子育てやお子さんの独立などキャリアステージの変化に応じても適宜、ご自身の役割・活動拠点を見直してこられているために、仕事を含めた生活全般を豊かに、すごくおもしろがって楽しんでいる様子が伝わってきました。ウジさん、取材中に「仕事が好き」っておっしゃっていたんですけど、そう思える環境を自分自身で作り出してこられた過程をシェアしたいし、仕事観を「労働」にとどまらない意義をもつものとして捉え直し、「仕事が好き」を増やす活動をしていけたらなって思う取材でもありました。

森田

webデザイン黎明期にどうやって技術を習得していったかという話のくだり、自宅にサーバーとか書籍読みまくりとか……リアタイ世代なこともあって実に共感できましたね。僕は今でもweb制作というカテゴリ内の業務に多く従事していますが、最初から今に至るまで、ただひたすらに独学というか業務を通じて学んできたみたいなのの塊なので、ウジさんが、なんなら学校にまで通ったという、なんというか学びに対する執念みたいなのがあって畏怖さえ感じてしまいました。まあ学校といえば実はわりと最近に、僕も改めて学びたいなとか思ってwebの専門学校的なところの入学面接みたいなの受けたんですけど落ちたんですよね。お話を伺いながら、学校、20年前に行っておくべきだったなぁ、そしたらもっと共感できたのにみたく思うなどしました(笑)。そして、書籍の執筆を通じてデザインや考え方を発信して、それが新しい発信の機会に繋がっていくというお話も、現在までにいたる実に多彩なお仕事のお話によって証明してらっしゃるわけで。大変楽しく、そして自分的にも参考になるキャリアのお話でした。ありがとうございました。

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