新卒入社して30年。経営破綻を経験しても転職しなかった理由
今回お話をうかがったのは、日本航空株式会社 広報部 Webコミュニケーショングループ長 山名 敏雄 氏。ITシステム系、空港の接客、Web系の業務などを経験し、現在はコーポレートサイト、SNSなどの運営統括を担当している。新卒入社してから30年が経ち、そろそろ定年も見えてきたが、その間には会社の経営破綻も経験した。1社で働き続けるキャリアに迫った。
Webが一般に普及してすでに20年以上が経つが、未だにWeb業界のキャリアモデル、組織的な人材育成方式は確立していない。組織の枠を越えてロールモデルを発見し、人材育成の方式を学べたら、という思いから本連載の企画がスタートした。連載では、Web業界で働くさまざまな人にスポットをあて、そのキャリアや組織の人材育成について話を聞いていく。
インタビュアーは、Webデザイン黎明期から業界をよく知るIA/UXデザイナーの森田雄氏と、クリエイティブ職の人材育成に長く携わるトレーニングディレクター/キャリアカウンセラーの林真理子氏。
自社システムの開発にたずさわりたくて選んだ航空業界
林: Webにふれたきっかけから教えてください。
山名: 高校の入学祝いで、PC-8801を買ってもらいました。当時はフロッピーディスクが高価で、カセットテープにデータを音声に変換して録音して記録していましたね。電電公社からNTTに民営化して、データ通信ができるようになり、NIFTY-Serveでパソコン通信を少しやりました。それがWebというかPCにふれたきっかけですね。
林: 日本航空(JAL)には新卒で入社されたのですか?
山名: はい、1990年に新卒で入社しました。大学は、情報工学系の専攻で、同じ研究室の同級生は、メーカーに入社する人が多かったです。メーカーは自分と似たスキルの人がたくさんいそうということと、自社よりも他社のシステム開発がメイン業務であるということから、その道は選びませんでした。自社のシステム開発を取り仕切るような仕事をしたかったからです。自社のIT要員が必要かつ、案件規模が大きそうなところという観点で、JALに入社しました。
最初に配属されたのが、IT企画部で社内の情報システム管理、システム企画・運営などを担当する部署で、そこに6年いました。
森田: 1990年というと、インターネットなどはまだ業務では使われてなかったと思いますが、どういった仕事をされていたのですか?
山名: 当時の社内システムはメインフレームコンピュータが主で、それにアクセスできる専用端末が各部署にありました。メインフレームは、アセンブラ、COBOL(コボル)などで開発されていました。最初の仕事が財務系システムをオンライン化するプロジェクトで、全国の支店をLANでつなぎ、各部門に端末を配布しました。1995年あたりからIT部門には一人1台のPCが導入され、インターネットにもつながって、業務時間外につないでみる、ということもありました。
林: 他の部門は、まだ一人1台ではないのですね。
山名: そうですね。業務連絡にメールは使っておらず、FAX、社内便、郵便、電話などが使われていました。IT企画部のあとに、成田空港に異動になり、カウンター業務などの接客を4年担当しました。
2000年から会社のWebサイト担当に。航空券の予約から販売までができる機能も
森田: IT部門で入社しても4年も接客を経験するんですね! 全員、一度は担当するのですか?
山名: 必ずしもそうではありませんが、旅行代理店などをまわる営業部門、電話予約、チケット販売を行うコールセンターなど、全員どこかしらの現場には配属されます。私は、国際線を見たいということもあって、自ら成田空港勤務を希望したところ、配属されました。
ただ、4年というのはたまたま長くなった感じです。配属当時はカウンター接客を本社の管轄でやっていましたが、2年目からJALスカイサービスに委託することになりました。そのため、残りの3年はJALスカイサービスのプロパーで運営していけるよう業務を通じた人材育成を行っていました。その後2000年に、JALのWebサイトやインターネット関連業務を扱う、JALプラニング(現JALブランドコミュニケーション)のJALインターネットセンター(現Webコンテンツ部)という部署に出向となりました。
林: 2000年の時点でJALのサイトは、どんな情報・機能を提供していたのですか?
山名: 1996年に最初のWebサイトができてマイレージの情報紹介からスタートしました。1997年から国内線の航空券の予約販売を開始し、電子航空券に対応しました。紙の航空券だと、事前に郵送するので購入が出発の3日前までなど発売期間が限定されますが、電子航空券なら、搭乗30分前まで購入可能ですし、郵送コストもかかりません。予約サイトができることで、一気にそこまで進みました。
といっても、当時は旅行代理店経由での販売がほとんどで、利用者は多くはありませんでした。旅行代理店との関係があるので、大々的に自社販売を推すわけにも行かず、様子をうかがいながらやっていました。
森田: それでも、90年代に予約から購入までがインターネットで完結できていたんですね。
7人の部署から50人の部署に急成長。人材採用、ビジネス拡大にも寄与
山名: 当時のJALプラニングのJALインターネットセンターは7人程のチームでした。しかしJALから毎日、依頼が山のようにくるので、7人では全然さばけず、まずは人員を増やすことから始めました。
林: 山名さんはその部門の責任者という立場だったのですか?
山名: 部長がいて、その下ですね。最初は、人員管理(仕事の配分や進捗確認など)が仕事と聞かされていましたが、業務が回らないので自分でHTMLの本を読んで勉強して、修正したり、ファイルを上げたりという作業もしていて、毎日終電帰りのような部署でした。その当時だからこそ許された働き方ですね(笑)。
林: どのように人員を増やしていったのでしょうか?
山名: 最初は新聞の求人広告などを使っていましたが、人が集まってもなかなか定着しないという悩みがありました。原因がわからないので、手法を変えようと思って、Web系の人材を中心とした紹介予定派遣からの正社員採用に切り替えて、増やしていきました。
2006年まで在籍しましたが、出るときには50人くらいの部署になりました。人を増やすだけでなく、JALから仕事を受注して仕事も増やしていきました。
森田: JAL本体からどんどん仕事が来るので、仕事には困らなそうですが、他の制作会社は競合になるんですか?
山名: 当時は、Webサイトの規模がまだ小さく、拡充していかないと仕事の量が少なかったのでその提案をしたり、グループ会社のWebサイト制作なども請け負ったりしていました。JALの仕事は一括して受注していたので、制作会社は競合というよりもパートナーで、まかないきれない時はお願いしていました。
森田: ちなみに2005年ごろから、JALのWebサイトは前職のビジネス・アーキテクツで請け負っていましたね。なつかしいです(笑)。
山名: そうなんですね! コンテンツ以外には、当初はクレジットカード決済のみだったのをマルチ決済にする取り組みなどもありました。2年目からは、JALの商品開発部とも兼務で働いていたので、プライベートがないくらい忙しかったですね。
とはいっても、仕事のベースにあるのが、旅という非日常でワクワクするものなので、堅苦しい仕事ではなく、楽しさがあったから長時間労働でも続けられたと思います。当時、企業サイトとしては、閲覧数はそれなりにありましたし、作って発信すれば多くの方に見てもらえるというのは、やりがいにもなっていました。
今できるWebの業務はやりきった! 密度の濃い7年間
林: チームが50人になって、現場の制作実務も手がけながら、マネジメント業務もやっていたのでしょうか?
山名: 出向先での肩書きが課長になり、マネジメント、組織体制づくりなどもやりました。人数が増えて、国内線、国際線、マイレージなどチームに分けて、それぞれにリーダーを置きました。
林: マネジメント業務は、仕事の中で覚えていったのですか? 社内の研修なども受けてこられたのでしょうか?
山名: 出向していたこともありますが、研修はほぼ受けておらず、手探りで実態の把握、課題の洗い出し、改善、不具合が出たら再調整という形でやっていました。
林: マネジメント業務には、部下の評価も含まれますよね?
山名: 評価は大きな業務でしたが、難しさも感じていました。生産性が高い人が評価されるべきですが、案件が人工(時間単価)なので、15時間でやるよりも20時間のほうがもらえる金額が高くなってしまうんですね。
森田: 受託なら、もう一つ仕事をとってきてまわせばその分稼げますけど、仕事の総量が決まっているなら、規定の時間内でやろうとなりますよね。
山名: はい、ですから早く終わったら自己啓発、スキルアップのために、専門書を読むなどの時間にあててもらっていました。ページ単価での請求にしたこともあるのですが、修正がたくさん入って赤字になってしまったので、結局人工に落ち着いたという経緯があります。
Webサイト関係の業務は、出向していた2000年から2006年までの間に、当時できることはやりきったと思います。会員ログインによるコンテンツの出し分けは、2000年からやっていましたし、決済手段の多様化、リニューアルは4回経験しました。日本エアシステムとの経営統合に伴う、Webサイトの統合もありましたし、コーポレートサイトの独立もありました。コンテンツだけでなく、サーバー手配などのインフラ系も経験し、とても密度の濃い7年間でした。
2016年にWebの仕事に舞い戻るも、状況がすっかり変わっていた
林: 2007年以降は、どんな仕事をされていたのですか?
山名: JALのIT企画部に戻り、2016年までいました。ここでは、海外ツアーの予約エンジンの開発などIT系のプロジェクトを転々としながら、仕事をしていました。
そして、2016年に現在の広報部Webコミュニケーショングループ(当時はコーポレートブランド推進部)に異動になり、Webの仕事に戻ってきましたが、Web関係の状況がすっかり変わっていて浦島太郎状態でした。最初の1年は空白を埋めるために、近所のブックオフなどでマーケティング関連の本を購入して読み漁りましたし、セミナーには週に2-3回、年間150回くらい行ってひたすらインプットしました。
林: 本とセミナーを通じて、どんなインプットが得られましたか?
山名: 技術よりも、他社が何をやっているかがよくわかりました。以前は導入が大変だったさまざまな仕組みも、クラウドで月額費用を払えばすぐ使えるようになっていましたし、サービスが格段に増えていたので驚きましたね。2年目からは、いいなと思ったツールはどんどん入れました。
森田: たとえば、どんなツールですか?
山名: JALではSNSに早くから取り組んでいたものの、発信中心でしたので、ソーシャルリスニングツールを入れました。そこで、SNSで自社がどんな文脈で語られているのか、オーガニック投稿からポジティブなことも、ネガティブなことも拾って、全社に共有しました。
この業務は今でも、情報発信に携わっている部門に毎日メールで送っています。夜の1時間半、朝の1時間半で、自社の情報、競合の情報をまとめて、HTMLメールで配信しています。この活動のおかげで、たとえば、コンビニで販売されているJALの機内サービスのコンソメスープが人気、といった話題に気づけるようになりました。
いま、力を入れているのがコミュニティサイト運営
森田: 現在の担当領域は、コーポレートサイトとSNSですか?
山名: 加えて2019年から始めたファンコミュニティの「trico(トリコ)」です。航空輸送業は、ブランドに接する機会が少ない業態です。頻繁に乗るお客さまもいますが、ほとんどの方は年に1回~数回しか利用しません。利用しない期間にSNSやファンコミュニティで生活者とコミュニケーションをとっておかないと、年に1回~数回の貴重な利用タイミングに第一想起してもらえません。
森田: tricoは、一見するとSNSのようですが、JALファン向けに公式がやっているコミュニティサイトという建付けなんですね。始めたきっかけは?
山名: Facebookにファンの人が立ち上げたページやグループがあるんですが、中立的な事務局がいないせいで、ファン同士で揉めていることもしばしば見受けられたんですよね。また航空ファンは年齢層が高い方が多いこともあって、そもそもSNSと距離がある方も多いのです。そこで、公式が運営するコミュニティなら安心して楽しめますよ、ということで始めました。
森田: ファンコミュニティは、始めたあとの維持費がかかって頓挫するケースもあると聞きます。
山名: コミュニティプラットフォームを使っているので、初期投資はそれなりに必要でしたが、運営に関してはそこまで高くはありません。コンテンツは会員の投稿が1日100~200件くらいあるので、タイムラインが頻繁に更新されていきます。
コロナ以前は、リアルイベントも1~2か月に一度はやっておりましたし、共創プラットフォームとしても使っています。たとえば、機内ドリンクの新バージョンを試飲してもらってアンケートをとり開発の参考にしたり、エコバックのデザインについて、会員座談会をして意見を聞き、CAのスカーフのデザインをあしらったものを作ったりしました。
森田: tricoはマネタイズを求められていないのですか?
山名: 求められてはいませんが、つながるような取り組みはしています。あいにくコロナ禍で延期になってしまいましたが、2周年を記念して、会員限定チャーターフライト便を用意しました。座席は有料でしたが、4~5倍の抽選倍率になる応募がありました。
4年間の集大成としてのコミュニティサイト。新しいビジネスを創出
森田: 運営の評価はどうしているのでしょうか?
山名: 会員数、日あたりのPV、UU、投稿数、投稿のエンゲージメントなど、10個くらいの指標を評価しています。また、JALのドメインを持つ各サービスと連携して、たとえば、trico会員になる前と後の年間平均購入額なども評価していきたいと思っています。ファン度が高まれば、搭乗回数、購入金額が増えるという仮説で、サイトの価値、効果が出せると考えています。
林: toricoの企画や構想は、山名さんのアイデアですか?
山名:はい。2016年に異動してきたとき、この領域でJALができているのは、企業サイト、FacebookなどのSNSアカウント運営くらいでした。他社の事例を調べて4年後の絵姿を描き、その集大成となるのが、tricoでした。
森田: 150件のセミナーとブックオフで購入した本の読破の成果ということですね。
林: 変化激しい時代に4年先の構想を作って、実際にチームメンバーを配置して、運営までフルで実現できているのはすばらしいですね。
山名: 絵姿ができてから、運営に入るまでは細かく設計しました。2016年当時のメンバーは私以外全員入れ替わっています。そこで、以前出向していたJALブランドコミュニケーションにチームを作って、運営はそこに手伝ってもらっています。人を雇う、部下を増やすのはハードルが高いですが、グループ会社に委託することで、そこにノウハウが蓄積されますし、連結決算になるので、このやり方が最適だと思っています。
森田: 新しい仕事を作り出し、グループ会社のエコシステムまでをも作っているとは恐れ入りました。
林: 2016年の4年計画は、想定通りですか?
山名: おおかたそうですね。計画の中に海外向けの発信もありましたが、組織改正という外的要因で、それは別の部署で行う事になりました。それ以外は計画どおりです。この4年間でやりたかったことはできたかなと思います。
人材育成の考え方: 失敗してもいいから自分でやってみる
林: 今はまた新しい計画をたてているのでしょうか?
山名: 本来は、2020年から新しい4年計画を考えていましたが、コロナ禍で計画が頓挫してしまいました。ただ、お金を極力かけずにできる新しいことを4月から始める予定で、それは今準備しているところです。
森田: 現在は給料に関わる部下の評価もしますか?
山名: しますね。年初の目標設定、中間見直し、最終的な達成度合いと、行動評価をあわせて、総合判定します。その後、二次評価者、最終評価者がいて、決まります。20年前と比べて、評価の仕組みと評価するポイントが評価者、被評価者の誰にとっても明瞭になり、評価はしやすくなりました。
組織としては、1からやっていいよと言われていたので、自由にできてやりやすかったですね。JALプラニング時代の7人から50人に急成長した部門の経験も生きていると思います。
林: 部下を成長させることも役割だと思いますが、そのための工夫、チャレンジはありますか?
山名: 仕事のゴールまでが100だった場合、20までは手伝いますが、残りの80は自力でやってもらうようにしています。以前は手取り足取りでしたが、それだと育たないので、失敗してもいいから自分でやってもらうようにしています。
運営自体は、JALブランドコミュニケーションに手伝ってもらっていると話しましたが、JAL本体は、数年で人が入れ替わります。一方、JALブランドコミュニケーションは、Web、SNS専属の人材を採用しているので、そこにノウハウを蓄積していけます。初めて配属したメンバーは、彼らに教えてもらいながら、ノウハウを身につけて、一緒に運営できるようにしています。
林: 社内の異動は希望できるのですか? 山名さん自身は、会社にこういう仕事がしたいと表明してきましたか?
山名: 成田空港勤務は希望しましたが、その後は会社に言われたところにいこうと思っていました。それがたまたまWebだったわけですが、おもしろかったですね。その後IT部門に10年いて、人事面談ではまたWebに異動したいとは伝えていました。
経営破綻も経験。これまで転職を考えたことは?
森田: これまで転職を考えたことはありましたか?
山名: 2010年に経営破綻したとき、かなりの数の社員が会社に残るか、転職するか考えるように言われました。そのときに真剣に考えて残る決断をしました。残るほうを選んだのは、JALという会社が好きだったからです。仕事が楽しく、労働環境、人間関係に不満がなく居心地がよかったです。また、経営再建というのも経験できないことです。うまくいってもいかなくても経験してみたいと思って残る決断をしました。
森田: 10年以上のキャリアがあると、次にそれを得るのは難しいですから、残って続けるというのが重要な選択肢になりますよね。15年目の壁と向き合うには15年の経験がないといけないわけですし。
山名: 同じような規模感の会社の同世代のマーケターの人と話すと、共感がありますね。認知度の高い会社ならではのやりやすさもあります。大きな予算、著名人とのタイアップなど、同規模でないとできないこともあります。その人も1社しか経験していないので、その人と期間限定で入れ替われたらいいね、などと冗談で話すことがあります。
林: 社外の人とのそうしたコミュニケーションがあるのはいいですね。
山名: デジタルマーケティング研究機構(旧Web広告研究会)や、ブランドサミット、マーケティングアジェンダなどのイベントで知り合って、情報交換するようになりました。2000年代前半はあまりこういった社外の方と交流できるイベントが少なかったので、2016年に戻ってきたときには恵まれているなと思いました。
森田: 今後の展望を教えてください。定年まで働く予定でしょうか?
山名: 定年は60歳ですが、今後制度が変わって延長になるかもしれません。定年後は再雇用の形態がありますので、もしかしたら再雇用という形でJALの仕事に携わるかもしれません。でも、その時にならないとわからないので、まずは、定年までやり切りたいと思います。
今はコロナ禍という特殊な状況なので、お金を極力使わず、限られたリソースで、4月からの新たな取組みにチャレンジしたいです。
二人の帰り道
林: 組織と個人が対等に発展的につきあっていく、今まさに求められている「自律的なキャリア形成」のお手本だなぁと思いました。新卒入社して30年といっても、組織に依存的になりすぎることなく、かといって自分の所属や役割をかたくなに固辞しようとするのでもなく。ローテーションを受けて接客業務も経験すれば、異動・出向の命を受けてシステム開発もマーケティングも分け隔てなく横断的に経験を積んでこられた。組織改正もあれば経営破綻もあった中で、もともとの「自社のシステム開発を取り仕切るような仕事をしたかった」という思い、「JALという会社が好きだった」という思いをもって、大事な節目ではご自身の意志決定を行いながらJALの再生の一翼を担ってこられ、かつJALという大きな活躍の舞台を十二分に活かしてパワフルなキャリアを育んでこられたこと、見事だなぁと脱帽です。コロナ禍はもうしばらく続きそうですが、私たちが空の旅を止めることはない、その確信をもって今後ますますのご活躍を心から応援したいです。
森田: 日本でインターネットが一般的にも使えるようになるや否や、すぐに業務的にも使い始めていて、2000年よりも前の時点でかなり企業的な活用が進んでいたという先進的な企業にお勤めの山名さんです。そして既に定年まで勤め上げることさえ視野に入れているのが、実にうらやましいなというか。なんか僕この連載では、自分よりも若い世代からは才能と未来への展望に満ち満ちていてうらやましいと思い、自分よりも上の世代からは積み上げてきた成果と将来の描き方のどっしり感にうらやましいと思い、結局どう転んでもじっと手を見る結末なんですが、今回も例にもれずそうなりました。2021年の中では一番めちゃくちゃ見たんじゃないでしょうか、手。記事中でも述べていたのですが、4年後を見据えてtricoを立ち上げたというくだりは素晴らしさしかないですね。サイトがどう運営されていくべきかそのものを構想するというのをできる環境に現在いるというのが、実際のところやはり大きく作用しているのだと思いますが、そのへんひっくるめて実にうらやましい。僕もうらやましがられるように頑張りたいなと、モチベーションをひねりだしてこようと思いました。また色々教えてください! ありがとうございました。
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