句点の正しい用法。モーニング娘。誕生の裏側と学校では教えてくれないこと
コンテンツは現場にあふれている。会議室で話し合うより職人を呼べ。営業マンと話をさせろ。Web 2.0だ、CGMだ、Ajaxだと騒いでいるのは「インターネット業界」だけ。中小企業の「商売用」ホームページにはそれ以前にもっともっと大切なものがある。企業ホームページの最初の一歩がわからずにボタンを掛け違えているWeb担当者に心得を授ける実践現場主義コラム。
宮脇 睦(有限会社アズモード)
心得其の百弐十九
小学校のボランティアからの気づき
近所の公立小学校のホームページ制作をボランティアで請け負っております。入学式や運動会といった季節行事の他に、毎月発行される「学校だより」を公開しているのですが、そこにあった「元気に挨拶する児童がいた。」という表記が気になりました。「。(句点)」の扱いで「元気に挨拶する児童がいた」と閉じカギかっこ前には句点をつけないほうが好ましいのではないかという疑問です。
筆者として特別な意味を込めた「。」は作品の一部なのですが、文脈からそれは認められません。また箇条書きの文末にも句点があります。子供たちに日本語を教える先生としてこの表記はいかがなものかとミクシィに書き込むと「句点をつけるように学校で習った」というマイミクさんがいました。そして調べてみると、なるほど「学校」では正しいことがわかりました。結論には明治で出会いました。
馬鹿という人が馬鹿
まずはネットで検索すると同様の疑問を相談している掲示板がありました。閉じカギかっこ前に句点をつけたことを間違いだと指摘されたことに首をひねる相談者に、間違いと指摘する方が馬鹿だと過激な回答が寄せられます。その論拠は
「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」
で、これは明治39年草案の句読法(案)をもとに、昭和21年3月に文部省(当時)教科書局調査課国語調査室がまとめたものです。そこでは文の終止に句点をうつとあり、「」(カギかっこ)の中でも文の終止にはうつとあります。これをもって間違いといったものを「馬鹿」と断じるのですが、しかし新聞や雑誌、書籍では閉じカギかっこ前の句点を見つけることができません。拙著の原稿に校閲がはいると戻された原稿の閉じカギかっこ前の句点はすべて削除されていました。新聞や出版社は馬鹿の集まりなのでしょうか。
さらに調べてみると「馬鹿という人が馬鹿」という小学生の頃に聴いた言葉がオーバーラップします。
学校という異世界
そこで「言論機関」である朝日、毎日、読売、産経新聞に問い合わせてみました。すると毎日新聞以外からは返事があり、朝日は「朝日新聞の用語の手引き」、読売は「読売スタイルブック」、産経新聞は内規に準拠しているとのことで、全社「。」はつけないといいます。さらに「読売新聞東京本社読者センター」は句読法案についてこう指摘しています。
あくまで日本語表記の基準の「参考」であって法律で義務付けたり、強制しているものではありません
学校の常識が社会の非常識であることは何度か指摘しましたが句点もそうなのでしょうか。
敗戦と句点の相互作用
ここで原点に立ち返ると素朴な疑問が浮かびます。「くぎり符号の使ひ方」がつくられたのが終戦から1年も経っていない混乱期だということです。人はパンのみに生きるにあらず、といいますが、食べることに必死な時代に「。」などどうでもよいことです。ところがこの時代の「教育」を調べてみると1つ仮説が浮かんできました。
このころ戦前からあった「日本語ローマ字化」の動きが活発になっていました。加えて漢字、平仮名、片仮名といった文字種の多さが国民の教育を困難にして、軍国主義への傾斜を許したのではないかという話が囁かれ、GHQ(連合国軍総司令部)は米国教育使節団を呼びよせ調査をしたのは「くぎり符号の使ひ方」ができたのと同じ昭和21年3月(1946年3月)です。
ここからが仮説です。このGHQの動きに慌てた当時の文部省が文章のルールを「明文化」することにより、
「国民の語学力をあげる取り組みをしている」
とアピールするために「くぎり符号の使ひ方」が作られたのではないかという見立てです。語弊を怖れずにいえば「やっつけ仕事」。その後の調査で日本人の識字率の高さは米国を上回ることがわかり「ローマ字化」が下火となると、今日に至るまでの63年間、「使ひ方」と旧仮名遣いのまま改訂されていない「役人仕事」ぶりも仮説を補足します。
そもそもなかった。
それでは強制力がないとはいえ新聞や書籍が「ルール」を順守しないのは何故でしょうか。新聞各紙の内規がほぼ同じであることも不思議です。一社ぐらい「文部省準拠」の新聞があってもいいのでは? という疑問からさらに時代を遡ってみると、
「そもそも日本語に句読点はなかった」
にたどり着きました。
文化庁の資料によれば句読点が示されたのは明治39年のことで、「日本語の歴史」からみれば最近で、漢文の「レ点」のように「読みやすさ」のためにつけられたとのことです。明治以前から句読点があったという説もありますが、幕末、坂本龍馬が姉の乙女に送った新婚旅行の様子を伝える手紙に「。」は見つかりませんでした。出版界が「。」をつけないのは
「本当はつけない」
という文章を生業としている稼業の矜持か意地か。ともかく、漢文の登場が「。」の用法に1つの結論を与えてくれました。
ケータイ小説と書籍で変わる句点
仮にやっつけ仕事だとしても句点が明文化された意義を否定するものではありません。「つけてもつけなくてもいい」という選択制や、状況により要不要が分かれる「条件分岐」では言語習得の初期段階にある児童を混乱に陥れてしまうからです。そして「くぎり符号の使ひ方」にはこうもあります。
なほ、読者の年齢や知識の程度に応じて、その適用について手心を加へるべきである
ミヤワキ流の意訳はこうです。「(読者の)読解力にあわせる」。ネイティブな漢文を読み下せる読者にレ点が不要なように、閉じカギかっこ前に句点のない文章を好む読者層にむけてならうたず、学校で習ったことを優先するならば「。」と書けばよいことであり、正誤で裁くものではない……のではないかと。漢字含有量や読点の数、さらには文語体か否かも読者層で変えなければならないようにです。つまり文章は読者のためにあり、句点も読者次第であると。そして「学校では教えないことを語る」と決意して閉じカギかっこの前に句点をうたないと誓うのでした。
ちなみに「モーニング娘。」は間違いではありません。あれは文章ではなく「商標」。
♪今回のポイント
絶対的なレギュレーションではないのでどちらでも。
ただし、一定の「読書家向け」の文章ならそれ相応の。を。
- 電子書籍『マンガでわかる! 「Web担当者」の基本 Web担当者・三ノ宮純二』
- 企業ホームページ運営の心得の電子書籍
「営業・マーケティング編」「コンテンツ制作・ツール編」発売中! - 『完全! ネット選挙マニュアル』
現場の心得コラムの宮脇氏が執筆した電子書籍がキンドルで2013年6月12日発売! - 『食べログ化する政治』ネット選挙が盛り上がらなかった理由はここにある(2013年8月1日発売)
コメント
“」”の前にも当然
“」”の前にも当然のように“。”をつけていました。
宮脇さんの記事にはいつも学ばせていただいて感謝しております。
私はたまたま商業文
私はたまたま商業文章を書かせていただいておりそこで疑問に思っていたことを今回、改めてしらべて自分なりの、少なくともそれに得心するかた向けの答えを提示したくて書いたものでお役に立てば幸いです。
無意識に「。」をつけていた過去の自分への反省でもあります。
余談ですが、小学館のマンガでは特別な意図がない限り「。」をつけ、講談社では特別な意図に従い付けたりつけなかったりだと、入校後の取材で明らかになっております。
そして今回の記事が私なりの結論です。
文章を読み下せる人間にはそれなりの句点を。
そうでない方にはそれなりの句点を。
なにはともあれ、いつもお読みいただき(コメントより拝察)ありがとうございます。筆者として望外の喜びです。
。をつけると、不思議に注意を促す仕様になりそうですね
いつも、宮脇さんの記事を楽しく読ませてもらってます。
わたしも、小学校では、「」の中に。をつけるのは、当然のように習ったクチでした。
いま、Webを担当するようになって、自分としてはキャッチコピーなどを考えるときに、「」の中に。をつけないほうが圧倒的に多いなと思いました。
「」の中に。をつけると、不思議感がでるような気がします。
たとえば、「Web2.0が殺すもの。」とすると、最後の。になぜか注意がいってしまうような気がします。言い放つような口調を表すのに「」の中に。はあまりいらないように、わたし個人は考えますが、。が入っているといつもの口調とは「違う。」という部分を不思議と強調しているかのように思えてなりません。
これはひどく私見ではあるのですが、「なかなか妙だ。」というポイントがありまして、今回初投稿させていただきましたw
鍵括弧
本来の日本語に句点が無かったというなら、鍵括弧だって無かったはずだと思いますので、句点を付けないのが本来の形とかいうのも無理があると思います。
昔の日本語には“。
昔の日本語には“。”と“「」”はどちらもなかったようですね。まった意識していませんでしたが、古文の教科書などでは、本来句読点がうたれていない文章を読みやすくするために出版社側でつけているとか。
新聞社が「~。」としないのは、限られた文字数を有効に使う、といった意図もありそうな気がします。さすがに本来の日本語に習って、“「」”と文末の“。”すべてを削ってしまうと読みにくいですから、そこは宮脇さんの言うように「読解力にあわせる」というところに落ち着いていったのではないかと。
昔の新聞は今とは違うかもしれませんね。
Web担編集部 池田
「」の中身
私が小学校で習ったときは、「」の中は「話し言葉」でした。
そのため話し言葉の終わりに句点を付け」で閉じると習った記憶があります。
しかし、「」がどのような使われ方をするかは、文章を書く人により異なり、
またその文章がどのような冊子や形態で読まれるかによるものと
判断しておりました。
たとえば、マニュアルなどで入力する文例などは「」を付けたりしますが、
その文例の内容によっては句点が付く場合とない場合が存在します。
どちらにするかというのは、読みやすさであったり、意図であったり
より良い文章と見られれば、どちらでも問題ないと思います。
因みに昭和初期までは、横組みの組版では句読点はカンマ(,)とピリオド(.)でした。
それからカンマと句点(。)になり、現在の読点(、)と句点(。)も用いられています。
縦組みと横組みでも句読点は時代により異なっていました。
組版ルールはあくまで読むためのものを作る上での決まりごとです。
時代ととも変化し、これでなければおかしいというものではなくなりつつあります。
それが良いのか悪いのかは分かりませんが…。
私の記憶にある授業風景では
コメントありがとうございます。
私の記憶にある授業風景では「、」はひとつ数える「。」はみっつ数えると教わりました。「音読記号」としてです。時代と共に変化する(これは読者層、読解力の変化により)ものですから、恒久的な正解はないのでしょうね。
ただ、「自分の読者」を想定して書く上で、本稿が微力ながらお役に立てば幸いです。