コンテンツは現場にあふれている。会議室で話し合うより職人を呼べ。営業マンと話をさせろ。Web 2.0だ、CGMだ、Ajaxだと騒いでいるのは「インターネット業界」だけ。中小企業の「商売用」ホームページにはそれ以前にもっともっと大切なものがある。企業ホームページの最初の一歩がわからずにボタンを掛け違えているWeb担当者に心得を授ける実践現場主義コラム。
宮脇 睦(有限会社アズモード)
心得其の百六十四
ネットが認知された証左
今年の3月、各種報道で報じられたので子細は触れませんが、個人がある企業をホームページ上で中傷した事件が「名誉棄損」と最高裁で確定しました。争点となったのは中傷内容の「事実か否か」の「論拠」についてで、一審では「ネットの個人利用者に求められる程度の調査は行っている」として無罪が言い渡されました。十分な取材をした上での「結果的誤報」の罪は問えず、本件では個人にできる範囲の取材をしていたという判断です。ところが、二審では「個人だからと特別扱いはできない」、つまり十分な取材がなされてなかったと有罪にし、それが最高裁で確定したのです。
この裁判のもう1つの争点は「表現の自由」でした。個人のホームページに報道機関と同等の調査レベルを求めるなら、個人はネット空間で自由に発言できなくなるという主張です。今回はWeb担当者にも関わりのある、「表現の自由」について考えてみます。
穴だらけの法律を作る狙い
同じく3月、東京都の「東京都青少年健全育成条例改正案」は「表現の自由」を理由にネットを中心に反対論が巻き起こりました。実はこの条例、いくつもの論点があるのですが、集中的に「ネタ」にされたのは「非実在青少年」。18才未満とおぼしき漫画やアニメのキャラクター、つまり「非実在」の「青少年」の性描写などを販売規制しようというものが、「表現の自由」を侵害すると反対運動が展開され、条例は継続審議として見送られました。
条例を見た私の印象は「穴だらけ」。規制対象や基準が不明確で、「不完全」への突っ込みが大好きなネットの住民の大好物ですから盛り上がるのは当然です。同時に反対論の強硬姿勢に首をかしげます。それはコンビニでの「エッチ本」と同じ扱いとなる「販売規制」であって「発売禁止」ではないからです。つまり「表現は自由、販売は不自由」。
エロも表現の自由
ネットを巡ると「反対一色」でした。一部の発言者が声を大にして連呼した時に多様な言論がなくなるのはネットの特徴です。そこで「リアル」の人脈に意見を求めると、ある大手新聞の記者が示唆した「穴だらけである理由」になるほどと唸ります。
ざっくりと大きな網をかけて、具体的な事例は判例や事例をもとに固めていく。最初に細目を決めて規制をすると、その“編み目”をくぐり抜けるものがでて本末転倒になる
「エロ」も表現の1つです。しかし、表現のすべてではありません。反対を唱える某著名漫画家はエロも含めて「子供には好きなものを読ませればよい」といいます。判断するのは子供で、エロだけで「作品性」がないものはそのうち見なくなるという主張です。ですが、性に目覚めた思春期のリビドーは作品性よりエロを重視するもので、私はこれには明確にノーを表明します。
表現の自由の適用範囲
「反対派」の意見でネット空間が占められることによって、多様な意見が封殺されてしまっては、それこそ「表現の自由」が失われるという立場で綴っておりますが、私の本音は「どっちでもいい」。ただ一点気になるのは、反対派の主張に「道徳的規範」が抜けていることです。先の著名漫画家の発言など論外です。私は、私の愛する小学生の甥や姪に性描写だらけの漫画を薦める道徳は持ち合わせていません。
反対派は「穴だらけの条例」が恣意的な運用をされ、「思想統制」や「言論弾圧」を引き起こし、先の戦時下の日本が復活すると畏怖しますが、同じく「道徳的規範」でみれば論外です。当時の「道徳的規範」には、「国家への奉仕・忠誠」があり、それが戦争への傾斜を止めることができなかった理由の1つです。振り返って現代日本に国家へ尽くす「道徳的規範」があるでしょうか。個人を一番に考え、権利を愛し義務を忘れがちな私たちに。
ともあれ、エロから戦争へ飛躍できる「作家性」には賛辞を送ります。
裸族という表現の自由
「表現の自由」とは社会通念や常識の範疇にだけ存在できるものであり、絶対不可侵の価値ではありません。ましてや社会の枠組みより上位に存在することなどありえません。それは以下の例からも明らかです。
裸こそ自己存在の表現だ
として、東京のど真ん中で「表現」すれば、国家権力がやってきて個人の自由を奪うことでしょう。あるいは「ボーダレス社会へのオマージュ」を住居不法侵入の理由としても裁判所は許してくれません。表現の自由より「宗教」が上位にある国家は世界中のマジョリティです。予言者を冒涜すれば殺人予告がだされ、十字架に磔になっただけでマドンナは非難されました。
「表現の自由」は民主国家の国民にとって大切な権利の1つですが、唯一無二の絶対的権利ではないのです。そしてもちろん、「社会」という枠組みに挑む表現の自由もあります。私が漫画家なら「青少年育成条例改正案はどこまで許すか!?」をテーマにした「どエロ」漫画を描いて「表現の自由」と「売名行為」の一石二鳥を目指します。
最高裁判決の残響からのメロディ
冒頭の判決で、裁判所がネットの現状を理解しつつあると感じた部分があります。
ネット上の反論によって十分に名誉回復が図られる保証はない
被告側(中傷した側)は原告(中傷された企業)もホームページなどを持っているので、反論ができ、そこで名誉回復ができたという主張を裁判所は退けたのです。これは事実です。確かに自社のホームページに記載して反論もできますが、一方で「騒動」を知らなかった客にまでわざわざ告知することになり、また各種掲示板などに「コピペ」された情報をみた人が「反対意見」を探すことはまれで、中傷された名誉が回復されないことは「スマイリー菊池事件」からも明らかです。本稿で当該事件の子細を詳述しないのも同じ理由です。
ちなみに「ネットの表現」が「報道機関と同等」に扱われたと萎縮することはありません。逆に企業Web担当者にとっては「根も葉もない誹謗中傷」に対処する論拠が増えたということです。
今回のポイント
表現の自由は聖域ではない。
すべての“自由”には束縛(ルール)がある。
- 電子書籍『マンガでわかる! 「Web担当者」の基本 Web担当者・三ノ宮純二』
- 企業ホームページ運営の心得の電子書籍
「営業・マーケティング編」「コンテンツ制作・ツール編」発売中! - 『完全! ネット選挙マニュアル』
現場の心得コラムの宮脇氏が執筆した電子書籍がキンドルで2013年6月12日発売! - 『食べログ化する政治』ネット選挙が盛り上がらなかった理由はここにある(2013年8月1日発売)
コメント
>私が漫画家なら「青
>私が漫画家なら「青少年育成条例改正案はどこまで許すか!?」をテーマにした「どエロ」漫画を描いて
>「表現の自由」と「売名行為」の一石二鳥を目指します。
色々、言いたい事があるのですが、ひとつだけ。
今回の条例改訂で槍玉に上がっている『奥様は小学生』が、まさにソレなんですよ。
これはジャンル的には馬鹿なエロコメディの類のものですが
性行為そのものは出て来ません。
で、何があるかと言うと“作中の妄想で”バナナを咥えさせたり
練乳が顔に掛かったりと言った暗喩、比喩の表現なのです。
これを規制派はガチの本番行為と認識して、これを口実にして規制しようとしているのです。
これが駄目となるとマタグラに『ナマズ』の比喩的表現をダイレクトに『陰茎』として判断される事になります。
ここだけ取ってみても、この問題には単純ではない問題が含まれているのです。
それから、この記事を書いた方は『有害図書指定』が「子どもに見せないようにする」為の方策、程度のご認識の様ですが
有害図書指定の流通の自主規制はこうなっております。
>出版業界の自主規制ルールとして「東京都の不健全図書(有害図書)として
>連続3回、もしくは1年間に5回以上指定された出版物(雑誌)は、特別な注文等がない限り
>取次業者では扱わない」というルールが定められており、そのためこのルールに該当した
>出版物は事実上一般書店での販売が困難となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%AE%B3%E5%9B%B3%E6%9B%B8#.E6.B5...
つまり、今回の条例改訂は、この流通の自主規制と組み合わされる事によって
『発売禁止』と同様の効果を生み出す事を意図したものなのです。(当然、知った上で自主規制を規制派が悪用しているのです)
ご存知かもしれませんが、漫画のほとんどは雑誌連載をしたものを単行本として出版します。
雑誌が非実在青少年性表現掲載を躊躇したら、当然、単行本としても出版されません。
書き下ろし単行本もまれにありますが、200~300Pの原稿を原稿料収入無しに継続して
描き続ける事は事実上不可能です。
一つと言いつつ二つ書きましたが、これだけでも問題山積なのです。
記事中の『著名漫画家』に対する批判に対しても言いたい事はありますが、今回は長くなるのでここまでにさせて頂きます。
いいたいことをお控
いいたいことをお控えいただきありがとうございます。
ご指摘のことは十分に予想しておりました。
ただ本稿の主軸のひとつは「表現の自由」。エロ規制の正しさ云々ではなく、BSフジの番組で猪瀬直樹さんがとりあげた漫画をどうこうするものではありません。
個人的には秋田書店系のオリジナルアニメにもなっているものを未成年が買える方がどうかと思っております。
また「暗喩」「比喩」とは作者の感性と読者の感性、そして「社会常識」に照らして妥協点を見いだすもの、というのが私の立場。それをもって「問題」とする指摘に頷くことはできません。
自主規制ルール・・・と、これについて論じるのは狙いではないのであしからず。え~と、後半に至っては論点が逸脱しています。
漫画家の生活は大変だと聞いていますが、これは本文に記していることの要約ですが
「エロは表現の全てではない」
という立場。そして著名漫画家についてはネットの中継をライブで見ていての感想です。
規制、権力との戦いならまた違う感想を持つのですが「表現の自由」を持ち出されると、本稿に書いた結論に辿りつきます。あしからず。
だいぶ返事が遅れま
だいぶ返事が遅れました。
何か、こちらの言い分とずれているんですが、感じた事を書きます。
>同時に反対論の強硬姿勢に首をかしげます。
>それはコンビニでの「エッチ本」と同じ扱いとなる「販売規制」であって
>「発売禁止」ではないからです。つまり「表現は自由、販売は不自由」。
本文でこう書いておられるのですが
>「エロは表現の全てではない」
まぁ、「全て」ではないですね。
しかし、表現においてエロが全てかどうかと言う話ではないでしょう。
つまり、これは「表現は自由、販売は不自由」発言を否定なさっているのですか?
それとも、「エロは工夫してやりなさい。成年マーク付は、まぁ猥褻罪で捕まらない範囲で」と言う事で
『奥様は小学生』に対するお言葉なのでしょうか?
>ただ本稿の主軸のひとつは「表現の自由」。エロ規制の正しさ云々ではなく、BSフジの番組で猪瀬直樹さんがとりあげた漫画をどうこうするものではありません。
規制の口実にされている作品を語らずに、今回の規制を取り上げるんですか?
この記事は、どう観ても今回の条例改訂を軸に語っておられるのですが。
『エロ規制の正しさ云々』が18歳未満への販売規制どころか表現規制になるから
問題になっているのです。
>個人的には秋田書店系のオリジナルアニメにもなっているものを未成年が買える方がどうかと思っております。
『聖痕のクエイサー』ですか?
こう言うのは分かる様に書かれるんですね。
>え~と、後半に至っては論点が逸脱しています。
雑誌掲載されなくなる事で、事実上、『18歳未満への販売規制』ではなく
『表現規制』になるとの意見が論点の逸脱になるとは思いません。
この部分は上記に引用した宮脇さんが「表現は自由、販売は不自由」と
言及している部分と関わっています。
これは、成年マーク付の成人向けの作品の話ですよ。
>規制、権力との戦いならまた違う感想を持つのですが「表現の自由」を持ち出されると、本稿に書いた結論に辿りつきます。あしからず。
『あしからず』と仰っているのだから、もう、そちらの意見は「変わりませんよ」との事なのでしょうが
権力と戦う時の武器が『表現の自由』と言う憲法規定ではいけないのでしょうか?
むやみに使えば錆付いて、武器としての効果が無くなると言う意見なら同意ですが。
巧妙に話題をすり替えた記事
「子供には好きなものを読ませればよい」とは、子供に自分で読むものを選ばせればよい、という意味でしょう。それが、「愛する小学生の甥や姪に性描写だらけの漫画を"薦める"」だなんて、曲解も良いところ。子供が読むものを選ぶ主体について、すり替えられています。
また、反対派の意見にもいろいろあるにも係わらず、わざわざ反対派と一括りにして、「エロから戦争へ飛躍」という極端な例のみ持ち出すとは、どういう了見でしょうか? 筆者の良識を疑います。
道徳について
宮脇 睦氏は反対派の反論に道徳や常識を持ち出していますがそもそも道徳や常識の定義はあいまいなもので集団や個人によって違うものであります。その道徳や常識で反論するのは自分の都合のよい解釈をした道徳や常識で反論つまりエゴだといわれても仕方がないのではないでしょうか。
また18歳未満の人間がエロ本を見て犯罪を犯すような人格になるという証拠がないのも東京都青少年育成条例改正案の重要な欠点ではないでしょうか