自分史(NEC時代)1983年~1989年 | Insight for WebAnalytics

Insight for WebAnalytics - 2023年5月31日(水) 17:06
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学生時代までの自分に続いて、ここからは仕事時代に入っていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・NEC時代
最初の就職先はNECだ。ざっくり言って当時従業員数は数万人、新入社員は1,000人くらいな規模感か。記憶は薄いが1カ月程度の一括集合型の研修があり、その間に配属先が通知されたと思う。研修は、会社のこと、商品のこと、業界のこと、経理の基本など、仕事をこれから行うにあたっての基礎的なこと、営業同行で顧客訪問など、様々な体験をさせてもらった。研修期間は自宅から通ったと思う。すぐに友達を作れる人達は、研修時代に早くも毎日のように夜は飲み歩いていたらしいが、自分は帰宅直行組だった。

配属先は府中事業所のコンピュータ系の事業部になった。ワープロからオフコンまでのコンピュータ製品の開発から生産までを担当する事業部。大卒同期入社組は10名程度だっただろうか。自宅から通えないことはなかったが、会社の敷地内にある寮に入ることにした。4畳半に2人詰め込むという感じで酷いものだったが、夜遅くまでの残業が日常的だったし、夕食風呂ありでタダみたいな寮費であれば入るしかあるまい。通勤なしで寝るだけの場所というのもまあいい経験だった。自分で洗濯くらいやれば済むので楽だった。土日は実家に帰れるし、必要なものはその都度家から持ってくればいいという感じだった。

仕事し始めてすぐに分かったことは、給料が安いのでみんなダラダラと生活残業が常態化しているのと、この会社の規模感だと主任/課長/部内部長/事業部長/何段階もの役員とステップを上がって社長になれたとしても70歳、果たしてそれでいいのかなあという疑問は3カ月と掛からなかったか。それでもまあ大企業に折角入社したし、特段ブラックな訳でもないから、どんなところなのか最低でも5年は勤めてみないとわからないだろうと思った(今の時代のスピード感だと2年程度でいいかもしれないが)。5年目で同じ事業部内の別の部に異動になり、違う仕事も経験したのだが、先は長すぎるなあという考えは変わらなかったので、転職活動をして6年超務めたNECから次の企業へと移った。

NECでは最初の5年は、事業部の中の経理のような仕事で、「計画部」の中で予算立案と実績管理を行う「予算グループ」に所属した。月次と半期、1年といった周期的な業務があり、その定型業務を繰り返していく。もちろん急激な円高対策とか半導体高騰、報復関税とか様々な出来事が起きるので、それに対して金額的なインパクトの予想だとか非定型業務も入ってくる。しかしまあ、定型業務に関して言えば、2度経験すれば何をしているのかは分かる(もとい、分かった積りにはなる)ので、それを5年もやっているとマンネリになるという自分の飽きっぽい性格はわかった。

もちろん他にも様々な経験をさせてもらった。普段は複数の先輩に直接指導してもらい、ときには役員レベルの会議資料を作る過程で事業部長へその資料の説明を事前にする会議があって、新人クラスの自分もそういう場へ参加させてもらって、トップの人達の考え方に触れさせてもらうことも多かった。その当時の5年で事業部長は3人くらい変わっているし、部長クラスや課長クラスの人とも頻繁に話をする機会も多く、大企業の様々な人達と接する機会があったのは、良い経験になった。一方、新人を指導するみたいな立場も経験させてもらったが、上手にできたとは思えなかった。

この時期は仕事とは別に個人で簿記の勉強をした。体系的に原価計算とか複式簿記の書き方、P/LやB/Sみたいな基礎は徹底的にやったので、お金周りのことについての知識は現在に至るまで自信がある。あと、仕事を離れて、投機的なことに手を出してしまい、最終的にはプラスに持っていったが、途中大損したりで、仕事も手につかないこともあり、投機も投資もまっぴらという原点はここにある。まあ、確かにメーカーは給料は安いが、もっと簡単に金儲けしようなどという邪なことを考えても、いいことはないということだ。

6年目に次の異動先になったのは何と技術系の部署(文系採用なのに)。まあ自分は大学で理系から文系へ転向したという経歴なので、設計とかゴリゴリな理系仕事でなければできると思われたのだろう。実際、その部署は今でいうとプロダクトマーケティング的な部署で、技術が分かる人の立場で商品の概要設計と出荷スケジュール、販売想定価格の決定など、商品の採算はもとよりその商品の開発から生産までの全体を俯瞰する部門。自分が配属されたのは、海外向けパソコンを扱う課。この課は4-5人しか部員がいなかったので、英語での朝礼当番が毎週1度は回ってきて、仕事以外にも負荷が高い課だった。英語に苦手意識は特になかったが、得意でもなかったのでしんどかったことは間違いない。

実はこの英語漬けになる部門に異動になる伏線があった。それは「予算グループ」に居た最後の頃に、1カ月ほど米子会社に出張を命じられて行ったことがあったので、海外赴任の布石かなという雰囲気はあったのだ。恐らく無関係だったとは思えないが、その辺りは上の人達に確認したことはないので真偽のほどは不明だ。出張したのは冬のボストンで、会社に近いホテルに泊ったのだがレンタカーを借りて通った。昼は現地の日本人社員に食事に誘ってもらって過ごした。自分の不注意から交通事故を起こしてしまったり、ボストン美術館へ一人で行ったり、いろいろなことがあったが、何があっても動じない度胸がついたし、いざという時の人の優しさに触れたりと、貴重な経験をさせて貰えたと思う。

さて海外向けパソコンの話に戻るが、開発に当たっては当然いろいろなトラブルがあって、ハード/ソフトすべてが100%問題ない状態で商品を作って売りだすことは難しい。そんないろんなバグがあるなかでスケジュール通りに出荷するようにもっていく課長の仕事の進め方には感銘を受けた。まあ、聞いてみると当たり前の基準があって、それで判断しているのだが、なるほどと合点がいう方法論だった。きちんと言語化して再現可能な方法論を持って仕事をすることの重要性を学べた。

ところで府中事業所には体育館も陸上のトラックもあった。部活動も盛んで運動部も文化部もいろいろあった。そして器械体操部があったので、配属されて早々に入部させてもらった。体育館の一角に各種器具もあったので、昼休みと終業後に活動していた。部員は10数名程度だが、実際に活動しているのは数名といった感じ。悲しいことに、先輩部員が昼の練習中に頭から落下して頚椎損傷で救急車を呼んで同乗するような事故もあった。大学でも先輩が2人の頚椎損傷で救急車という現場に立ち会っているが、怪我するときに行っていた動作パターンは同じで、どういう場合に危険度が高まるのかを知っておくことが大事だ。失敗は再現性があるということ、仕事でもそうなんだけど。

現役で活動していない体操部のOBは、府中市の体操協会の理事をやっていたりして、府中市には体操部のある中学などもあり、府中市は比較的体操が盛んな場所だった。結局はキーになる人が動くから物事が始まるということだ。多摩川の近くに府中市総合体育館があり、そこで市の体操の大会を開催していた。そこで選手として試合に出たり、中学生の試合では審判をしたり、休みの日に府中市の体育館で体操教室を開催して教える活動もした。トランポリンもあったので、体操教室ではよくそれで遊ばせた。ここでも「教える」活動を少し経験したものだが、いろんな子がいるので、それぞれにあった教え方をするのはなかなか難しいものだった。

また、体操はこの頃に正式な審判資格も取った。審判資格は何種類かあって、その一番下のクラスだったが、一瞬で終ってしまう演技を正確に見取って、なるべく客観的に評価し瞬時に点数化することは難しかった。東京都の高校生の公式大会で審判をしたことがあるが、高校生でも自分より遥かに高度な技を行う選手の採点を、自分が採点する滑稽さというか酷さは誰もが感じることだと思うが、他の採点競技であるフィギュアスケートしかりで、採点競技の審判は本当に難しいものだと思う。NEC時代に部下の評価をした記憶はないが、社会人になって人の人事評価をすることの難しさに通じるものがある。

会社での活動に戻るが、昼休みは1時間あったが、そのうち体育館で器械体操をするのに30分、着替えやシャワーを浴びるのに15分、後の15分で体育館に隣接する社員食堂で昼飯をかき込むという毎日だったので、昼飯は当然いつも一人。先輩や同僚と一緒に昼飯というありがちな光景とは無縁だった。また夏の時期だけ、昼休みは水泳部員になってプールで25mダッシュを繰り返す練習に参加した。そう、体育館と陸上トラックの間にプールもあったのだ。陸上部なんかもあったし、昼には事業場の周囲を多数の人が走っていたものだ。

本社採用の社員以外にも、府中事業所で採用している中卒や高卒、短大卒などの社員も居たし、大企業には障害者の雇用が義務付けられているので、ろうあ者の方も多数働いており、その周りには手話ができる社員も大勢いたものだ。それ以外にも、関係会社や協力会社、子会社など様々な会社の人が事業所内に同居あるいは、各部署の中の一員として仕事をしていた。

話は変わるが、丁度自分が入社したころから、男女雇用機会均等法も施行されたので、女性は結婚したら主婦になるべきみたいな固定観念(親の世代はまさにそんな感じ)が崩れ始めた時期でもあった。自分はこの時期に結婚したが、基本的にはずっと共働きだ。そういう意味では、自分は昔ながらの風習や常識みたいなのには、一切拘りはないのは昔から変わっていない。

NEC時代の交友関係だが、寮生活しながらも土日は実家に帰ることも多く、寮内に親しい友人を作ることもせず、上司や同僚後輩と特に親しい関係を築こうともしなかった。まあ、社員旅行は毎年ある部だったし、事業部全体での飲み会は年に1度あったし、誘われたら部単位、課単位の飲み会(からのカラオケとか)にも参加した。健保の保養所に部内の有志での旅行、課長の家に部下が皆で遊びに行ったこと、先輩とゴルフに行ったこと、同期でテニス行ったこともある。まあ誘われたら断らないくらいな関係で心地よかったかもしれない。べったりしないまでも家族的な雰囲気は悪くはないものだった。また府中事業所の別の事業部に配属された中高時代の同期が結構近い場所に座っていたので、たまに話しかけに行ったし、スキーも二人で行った。

仕事を始めたこの時期は、社会人としての心構えみたいなものを徹底的に吸収して、社会人としての基盤を構築したという意味で重要な時期だったと言えるだろう。一方、NEC時代に、あの人のようになりたいという「キャリアを形成する上でお手本となる人物(ロールモデル)」とも出会わなかったし、その後も含めて、大きな影響を受けた人物は出てこなかった。

出会いが自分の転換点になった人物は複数人いるが、それはここで言う「(人として)影響を受けた」とは異なる表現が相応しいだろう。人と自分は能力も性格も違うし、時代背景などの外部環境も違う。そんな中で、特定のある人と同じようなキャリアを歩んでいくのは無理だし、大勢の人から多くの学びを得るべきだろう。自分の性格や能力に合った目標は自分で考え、常に軌道修正し行動すべしという考え方は今でも変わっていない(自分史(中高時代)に書いた「自ら調べ自ら考える」に帰着する)。いずれにしても6年3カ月の間にお会いした大勢の方々に感謝したい。

少し話は変わるが、NEC特有の経験から、事業する上で考えたことがあるので、それに触れておく。

NECは大企業で事業部制だったため、基本的に会社は各事業部が独立して動く組織の集合体として捉えていた。大企業になると、よく総合力という表現を使うと思うが、相乗効果という話とは全く別に捉えておいた方がよい。どういうことかというと、事業部制で縦割りということは、実際の所では掛け合わせての相乗効果があるということはあまりなくて、単なる足し算でしかないことが殆どだと中に居て感じた。しかしだからといって、昨今は半導体部門と家電部門と通信部門と...みたいに別会社化して分けて次々に窮地に陥るのを目にするにつけ、それは違うんだよなと思う。

掛け算の相乗効果はなくても、足し算ができれば、どこかが調子が悪くても別の好調な事業でカバーできて、会社全体が簡単に傾くことはない。縦割り組織が複数集まっているだけでも十分に存在意義があるのに、分けてしまうと単体でダメになったら、他所の同業と合併みたいなおかしなことが最近多すぎるような気がしている。どちらにしても、自分がいた時期は、コンピュータ系も通信系も半導体系も好調なバブル直前の素晴らしい時期にイケイケどんどんの追いつけ追い越せの元気のいい時代だった。

もう一つ感じたことは、取引先の中にはNECよりも大きい超大企業も当然いたのだが、そこ向けのビジネスは大変厳しいもののようだった。隣の事業部がそういう事業で構造的な赤字体質だったが、だいたい超大企業のやり口は決まっていて、2-3社に競争入札させて、熾烈に競い合わせて原価率150%みたいなことになっていた。個人的には、そんな入札からはさっさと撤退すればいいのにと思っていたものだが、まあそんな簡単なものではないのだろう。

まさに下請けから完全に搾取する構造が出来上がっていて、超大企業の言いなりみたいな世界はダメだろうと思った。そういう経験もあって、独禁法とか公正取引委員会とか、公的で公正な厳しい監視の目と厳しい措置の実行などもガシガシやって欲しいと思っている。放っておけば、まず変わらないからだ。今でもいろんな業界でそういう習慣は残っているのではないだろうか。自分の利益のためには下請けイジメして当然といった雰囲気の企業は、トップがどんなに格好のいい話をしても尊敬できない会社のレッテルを僕は貼る。

自分史(~小学生時代)で、図工の教師にビンタされた話をしたが、僕の場合は、すべて「ああ、自分はこういうことは他人にするまい」というネガティブリスト的に反面教師を増やしていった感じがする。だから、上に書いたけど、理想とする人物像(ロールモデル)に近づこうとするのではなく、こういうことをする人にはなるまいという多くの「してはいけない事」を自分から排除していくことで、自然と相対的によくなっていった気がしている。仕事の振る舞いでも、公衆での振る舞いでも同じ原則。そして自分と合わないなと思う人とは距離を置くことで心の平穏を保つ。逆に言えばそういうことをしているから、いろんな考えの人と集まって大きなことを成すことはできなかった、とも言える。

さて、ここではプライベートはあまり触れないことにしている積りだが、この時期に結婚し、府中事業所にも遠くない南武線沿いの川崎市多摩区の中古マンションを購入。共働き、まだバブル以前で3DKで2000万円足らず、薄給でも何とか手が届いてローンが組めた。まもなくして猫も同居といった暮らし。京王線の駅にも近かったので、都心へも出やすくいい場所だったと思う。今でもたまに通るが、駅前に少し商店街が集中している程度で大きく変わっていないかな。多摩川も近くに流れ、丘陵地帯も迫っていて自然が多く、比較的穏やかな時間が流れているいい所だった。

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