インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~

1982年に旭通信社への入社をきっかけに広告業界へ[第1部 ‐ 第1話]

インターネット広告登場前の1980年代を振り返ります。

インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第1話。連載の主旨はこちらをご覧ください。第1話では「インターネット広告登場前夜の風景」と題して、この連載でインターネット広告の歴史についてナビゲートしてくださる佐藤康夫さんが広告業界でのキャリアをスタートさせた、1982年前後から物語が始まります。

杓谷

日本におけるインターネット広告市場の本格的な誕生は1996年のことですが、佐藤さんは1982年に旭通信社(現:株式会社ADKホールディングス)に入社したことをきっかけに広告業界に足を踏み入れたわけですよね?
入社当時の1980年代はどのような時代だったのでしょうか?

佐藤

東京外国語大学のイタリア語科を卒業し、旭通信社に入社しました。僕が学生時代を過ごした1970年~1980年代は今にして思えばまだまだ経済的に発展途上の時代でした。

1970年代、経済が急成長していく中で過ごした学生時代

佐藤:穴あきジーンズやロン毛のファッションは現代でも一部の若者の間で取り入れられていますが、この頃の穴あきジーンズは、お金がなくて他に着るものがないからジーンズに穴が空いたまま履いていただけですし、ロン毛も床屋にいくお金がないから髪が長くなってしまっただけで、ファッションとしてやっていたわけではありませんでした(笑)。

それが変わっていったのは、商社や自動車業界の隆興の影響です。日本社会が高度経済成長時代に入り豊かになっていき、『Japan as Number One: Lessons for America』という本が出るまでに至りました。

杓谷:『Japan as Number One: Lessons for America』は、日本の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価した内容の本です。この本は、日本経済が成長し、圧倒的な経済大国であるアメリカが一目置くべきだと感じさせる象徴的な存在として広く知られています。日本社会が目に見えて豊かになったことを示す一つの例と言えますね。

佐藤:僕は学生時代にバンド活動に夢中になり、音楽にのめり込んでいたのですが、日本経済が豊かになっていくと、音楽もフォークから反骨精神を持つロックへ、そしてフュージョンというジャンルが流行し始めたのです。フュージョンはジャズを基調にロックやラテン音楽、電子音楽、時にはクラシック音楽などを融合(フューズ)させた音楽スタイルです。また、都会的で洗練された音楽として、AOR(Adult Oriented Rock)というジャンルも生まれました。当時、フュージョンバンドの『カシオペア』が登場したのもこの頃です。

杓谷:そもそも、エレキギターやシンセサイザーなどの電子楽器を人前で演奏するにはアンプやエフェクター、ミキサーなど高価な音響機器が必要なので、フュージョンは経済が豊かにならないと実現できないジャンルの音楽と言えるかもしれません。日本社会がだんだん豊かになってきた様子が音楽からも読み取れます。

佐藤:その時代の変化に若者たちが反応し、1980年に田中康夫が小説『なんとなく、クリスタル』を発表して話題になりました。田中康夫は僕より一歳年上で、一橋大学の学生時代にこの本を発表しましたが、同世代の私たちも驚きました。この小説には、当時の人気雑誌『POPEYE』や『Hot-Dog PRESS』で紹介されていた服や雑貨が数多く登場し、比較的裕福な若者しか知り得ないブランドやレストランの名前が散りばめられ、都会的で洗練された生活が描かれていたからです。それまで吉本隆明などの思想的な作品が流行していた時期だったので、このような新しいスタイルの小説が登場したことに、とても驚かされたのです。

杓谷:『なんとなく、クリスタル』は、各ページの末尾に小説本編に登場する服や雑貨のブランドなどの脚注がこれでもかと記載され、この脚注自体も文学作品の一部となっています。都会的で、記号的消費社会の到来の象徴的な作品として文学史に名を残しています。モノそのものだけでなく、モノに付随するブランドイメージなどをいかに身にまとうか、といったことが新鮮だったわけですよね。日常生活を送る上で物資に不自由しなくなったからこそできる生活スタイルと言えるかもしれません。

佐藤:こうして日本社会が豊かになっていく中でも、1ドル220円という時代でもあったので、やはり舶来品、海外のブランド物は特別な価値があるものでした。1ドル220円では滅多に海外に卒業旅行なんて行けないですよね。

外大生の強みを活かして就職活動を始めたものの……

佐藤:このような時代背景の中で東京外国語大学にいると、自然と「海外との関わり」が就職活動の中心になってきました。私の中では「大手か中小か」という軸と、「海外か国内か」という軸で就職活動を考えていました。

佐藤:同級生の多くはマトリックスの右上の大手・海外という枠の会社に就職する人が多かったと思います。私は東京外国語大学のイタリア語学科に在籍していたのですが、イタリアに工場がある大手企業が多かったので、実際に自動車メーカーなどに就職した大学の先輩達から一本釣りで声がかかってきました。卒業生の多くはそうした大手メーカーの海外部や大手商社、あとは公務員系でJETROとか海外との接点がある就職先が多かったですね。

杓谷:この時代の大手自動車メーカーや商社の存在は、現代の学生に人気の外資系戦略コンサルティング企業や、外資系投資銀行などに匹敵するのかもしれませんね。

佐藤:そうした一般的な進路が、学校生活の延長のように感じられて、私は同級生とは少し違う考えを持っていました。マトリックスの左上に位置する中小の商社に入り、「20代後半までに実務を全て覚えて独立する、という夢があってもおもしろいのではないか」と考え、その道を探ってみることにしたのです。当時の就職活動には次のような3つの選択肢がありましたが、その中から従業員50人以下の商社を調べて、実際にコンタクトを取り、訪問しました。

  • 先輩からの紹介
  • リクルートなどの就職斡旋企業から送られてくる図鑑のような雑誌
  • 大学の学生課にある求人情報

杓谷:私の世代では、就職支援サービスと言ったら真っ先にリクルートの「リクナビ」を思い浮かべますが、当時はその「リクナビ」の前進の『リクルートブック』や『日経就職ガイド』といった図鑑のような雑誌が主要な情報源だったんですね。

左:『リクルートブック’81』の表紙1980年9月刊行(筆者所蔵)
右:『リクルートブック’81』の旭通信社の記事(筆者所蔵)

佐藤:今なら優秀なベンチャー企業はたくさんあり、探すのも難しくないです。しかし、当時はそういう企業があったとしても、見つける術がなかったんです。従業員50人以下の商社を実際に見学してみて感じたのは、就職雑誌に掲載されている企業は、結局大手企業の下請けのようなところが多く、自分が求めているものとは「違う」と感じるようになりました。そうなると、大手商社に就職した方がいいのかもしれないと、就職活動の軸が少し揺らぎ始めました。

糸井重里の登場に刺激を受けて広告業界に興味が向かう

佐藤:ちょうどその頃、個人的にテレビCMがすごくおもしろくなってきていました。コピーライターの糸井重里が出てきたからなんですが、西武百貨店の「おいしい生活」などの名キャッチコピーが生まれた頃で、『宣伝会議』などを読んだりしているうちになんとなく広告業界が良いなあと思うようになりました。

杓谷:西武百貨店の「おいしい生活」は、1982年にコピーライターの糸井重里が考案したキャッチコピーですね。映画監督のウディ・アレンが起用されたことでも知られ、「おいしい生活」の「おいしい」という言葉は、たいして汗をかかずに利益が得られるというような意味を指していて、今で言う「コスパ」の意味に近いかもしれません。オシャレで洗練された生活が手軽に手に入る西武百貨店にぜひお越しください、ということですよね。1990年代では、テレビで芸人が体を張った芸でいじられると「(何もしなくてもウケるなんて)おいしいなぁ〜」なんて言葉がよく聞かれましたが、そういえば最近は聞かないですね。

糸井重里は、西武百貨店の他にスタジオジブリ作品のコピーなども手掛けていることで有名ですね。ウェブサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』や、ゲーム『MOTHER』シリーズの制作など、その活動はコピーライターの枠に収まらず多岐に渡りますが、元々はコピーライターとしての活動が出発点でした。『宣伝会議別冊「コピー・パワー」』など、1980年前後の広告業界の雑誌を見ると、いかに彼が注目されていたかがわかりますね。

『宣伝会議別冊「コピー・パワー」』で特集される糸井重里(筆者所蔵)1980年6月刊行

佐藤:広告業界の中でいくつか企業を探してみると、旭通信社という会社を発見しました。『ドラえもん』『巨人の星』『エイトマン』など、子供の頃から熱心に見ていた有名なアニメ番組をたくさん制作していて、大手ほどの規模ではないけど、おもしろそうな会社があるなと思ったわけです。それでちょっと心が動いてしまって、説明会に参加してみると、同じように受けに来た人たちが「あの広告おもしろいよね!」と盛り上がっていて、活気があって楽しそうだなと感じました。

一方で、他の業界の会社に行くと、そこまで業界について熱心に話している人はいませんでした。そうした経験から、次第に広告業界に興味が向いていきました。「これが自分に合っているのかもしれない」と感じ、広告業界に飛び込むことを決意しました。

杓谷:つまり、慣習的になんとなく大手企業に行くのではなく、自分で探し当てて旭通信社を発見し、これからテレビの全盛期を迎えようとしている時代の広告業界に飛び込んだわけですね。

アニメを武器に自ら道を切り拓く旭通信社との出会い

佐藤:テレビ局の番組広告枠は、基本的には大手総合代理店がすでに広告枠の大部分を買い付けて押さえています。テレビ局側にとっては、広告代理店が広告枠を一括で買ってくれたほうが売れ残りがなくなりますし、万が一、広告主が広告費を支払えなくなっても広告代理店が費用を先に払っているので、テレビ局側が取りっぱぐれる心配はありません。広告代理店が不動産の保証会社のような役割を果たす形で、この商習慣が確立されたのだと思います。

また、広告主から直接発注を受けると、コミュニケーションが煩雑になりがちです。そのため、広告代理店が一括管理してくれる方が、効率的で助かるという側面もあったのではないでしょうか。

このような背景から、テレビCMの発注は広告代理店を通すことが一般的になり、保証会社のような機能を果たせる経済的な基盤がある大手広告代理店だけが、テレビ局などの媒体社と取引口座を持てるようになったのです。これは、広告主、広告代理店、媒体社の3者のニーズが一致して出来上がった業界の仕組みであり、大手広告代理店が大手となる理由の一つだったと言えるかもしれません。

旭通信社がおもしろかったのは、そうした大手広告代理店に割り込むために、どうすれば良いかを考え、アニメなどのテレビ番組の企画をテレビ局に持ち込み、19時台のアニメ番組の広告枠をあらかじめ買い付けて押さえるという戦略を積極的に行っていた点です。これにより、主に玩具メーカーやお菓子メーカーに広告枠を売り、少しずつテレビ業界に食い込めるようになっていきました。

『8マン』『スーパージェッター』『マジンガーZ』などから始まって、僕が入社した頃に新人研修のときに見せられたのが『宇宙刑事ギャバン』でした。僕が入社する数年前に『ドラえもん』が始まり、「ドラえもん景気」と言われるほどの大ヒットを記録したそうです。『ドラえもん』の成功により、会社の業績が急上昇し、新卒でもボーナスが良かったと聞いています。アニメ以外でもタモリが司会をした『今夜は最高!』も旭通信社が企画していたと記憶しています。

こういったテレビ番組の企画は「ラテ企」(「ラジオ・テレビ企画」の略)という部署が担当していて、非常に興味はあったのですが、海外向けの広告宣伝をやっている国際部も魅力的でした。僕は少し変わったところに身を置きたい性格なので、「海外向けの広告ってどんなことをやっているんだろう?」と興味を抱き、会社には「配属先は国際部志望です」と伝えたところ、案の定、国際部を志望する人がほとんどいなかったので、希望通り配属されることになりました。

「第1部 - 第2話」に続きます。

◇◇◇

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