「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第55話(特別編の前編)。前回の記事はこちらです。

杓谷

佐藤

藤田
電通が試作した未来の新聞『日本新聞』
藤田:デジタル関連では、1993年~94年に電子新聞のデモ版『日本新聞』の「企画」に携わりました。この頃の新聞社は、マスメディアの中で最もデジタル化が進んでいました。 記者はワープロで記事を作成し、紙面制作のデジタル化(CTS - Computerized Typesetting System)も完了しており、過去記事をCD-ROMやパソコン通信で外販するデータベースビジネスも行っていました。
また、一般家庭ではCD-ROMやカラーモニタを搭載した「マルチメディアPC」が売れ始めた時代でした。そんな中、NTTの「VP&I構想」に刺激された米国クリントン政権が「情報スーパーハイウェイ構想」を発表したことで、21世紀早々にもNTTが各家庭に光ファイバーを敷設(FTTH)して、「新聞は紙ではなくモニタで読む時代が来る」と予測されていました。いわゆる電子新聞です。こうなると紙代、印刷代、配布コストが必要なくなるので、購読料だけで経営が成り立ち、広告は不要もしくは大幅縮小するかもしれない。もし、売上2位の新聞広告市場が縮小したら……という危機感が、電通の新聞局内に生まれたのです。
そこで、新聞社が構想するよりも先に、広告入り電子新聞のデモ版を制作し、新聞社にプレゼンすることで、読者の情報源として、広告の有益性は電子新聞でも不変であると訴える「企画」がスタートしました。新聞業界が広告モデル前提に、電子新聞を構想する土壌を作ろうとしたのです。
「世界都市博覧会」のテレビCM
『日本新聞』がリアルさを追求できた理由
『日本新聞』はデモ版でしたがリアルさを追求し、記事も広告も本物のデータを使うことにしました。記事データは日経が提供しています。これには裏話があって、日経は3年後の1996年に120周年を控えていました。同年には台場青海地区で「世界都市博覧会」が開催予定(後に青島幸男都知事により中止)だったので、ここで「21世紀の新聞」(電子新聞)を大々的に発表する「企画」を電通新聞局から提案していたので、『日本新聞』に協力したのです。
以下が『日本新聞』の一面(トップ画面)です。記事も広告もデザインは全て、CD-ROMなどのデジタル広告も制作していた電通の社内クリエーターが手掛けました。
右の列(カテゴリ分けされたボタン)から各面にジャンプし、記事をクリックすると詳細や動画がオーバーレイで表示されます。広告は、見慣れた新聞紙と同様に「記事下広告」(記事の下にあるバナー広告)として、小学館の雑誌の広告をはじめ、各面にトヨタ・東芝などの商品広告が登場し、バナー広告を見ただけで必要最低限の情報を伝えていました。
バナー広告をクリックすると、記事と広告の境界をしっかり引くために、オーバーレイではなく全画面が広告となり、関心を持った読者がインタラクティブな操作で、より楽しく詳細情報を得る仕組みになっていました。現在のディスプレイ広告やリッチメディア広告の原型を、1993年時点で試作していたのです。
日本で最初にニュースをインターネット配信した北海道新聞
藤田: 1994年に完成した『日本新聞』のプログラムを最新鋭のMacBookに入れて、全国の新聞社を訪ねては、デモを行いました。そこで衝撃的な出会いが生まれます。北海道新聞(以下、道新)を訪問して、いつものとおりデモを終えると、道新の方に手招きされて、真っ暗な部屋に連れて行かれました。吉村匠さんという方で、場所はシステム開発室。そこで、UNIXのワークステーションのモニタ画面を見せてもらいました。
画面には 釧路で開催された「ラムサール条約第5回締約国会議」(1993年6月9日~16日開催)のホスト新聞社として、通信社経由で世界に配信した英文記事や、公式発表物、タンチョウヅルの映像がレイアウトされた画面が映っていました。吉村氏が「今、世界中の人がこの記事を見ることができるんだよ」とインターネットで実験的に発信していることを説明しました。マスメディアによる日本初のインターネットニュース配信の現場だったのです。
吉村氏は「君たちが見せてくれたものは、もうすぐ現実になるよ!」と最後に断言して、送ってくれました。「我々は正しい方向に向かっている」と確信を得ることができたこの出会いは、『日本新聞』にとって大きな後押しになりました。全国の新聞社を訪ねる中で、他にも先進的な考えの人達との出会いが多数ありました。やっぱり新聞社はスゴい集団だ、と改めて感心したことを憶えています。
ブラウザ「NCSA Mosaic(モザイク)」の衝撃
藤田: 同時に、私のキャリアの前半部分がインターネットを舞台とする決定的な転換点となりました。この道新のインターネット配信実験は、1993年頃に登場した世界初のブラウザ「NCSA Mosaic(モザイク)」で表示されていました。このブラウザは、CD-ROMを見る画面と同様に文字と画像が同時に表示でき、ハイパーリンク構造も備えています。
そして、BBSホストに直接接続するパソコン通信よりもはるかにクリアで魅力的な画面だったのです。私が「『日本新聞』がネットワーク上で実現する! 新しいメディアが生まれる! 新しい広告ビジネスが始まる!」と直感した瞬間でした。
出典:NCSA Mosaic Browser Screenshot.png is licensed under PDM 1.0
翌1995年にインターネットの商用化が始まると、予想通り各新聞社がブラウザを使った電子新聞の運用を開始しました。その中の1社である毎日新聞は、8月に『JamJam』という今の『毎日新聞デジタル』の前身のサイトを開いています。
私を含めた『日本新聞』の開発メンバーの何人かが、1994年下期からデザインや広告ビジネスモデルの開発でお手伝いをさせていただきました。こうして新聞社のニュースサイトが、インターネット広告における最初の「パブリッシャー」(広告枠の提供者)に、そしてメインプレーヤーになっていきました。
コンピューターの未来を描いた『Apple Magic ’95』
藤田:もう一つ、インターネットの黎明期に私が関わった印象深い「企画」をご紹介します。アップルコンピュータ(以下、アップル)が、インターネット時代におけるMacの未来像を日本市場に向けて発信したい、と電通に相談があり『Apple Magic ’95』という「企画」が生まれました。下の動画はそのテレビCMです。
「Apple Magic ‘95」のテレビCM
メインイベントとして、テレビと新聞の2大マスメディアにインターネットを加えて、一連のストーリーにするという一大イベントが「企画」されました。まず、テレビ朝日の超人気番組『ニュースステーション』(現在の「報道ステーション」の前身番組)のその日の放送が終了した1995年7月18日23時30分から、そのまま久米宏氏の司会で、アップル提供の特別番組がスタート。
その年のヴェネチア・ビエンナーレに出品するなど大人気のクリエイター日比野克彦氏(現、東京藝大学長)がMacを使って作品制作を行う様子を生中継。完成した作品のデータを、当時最速だった1.5MbpsのNTT回線を使って朝日新聞東京本社(築地)にFTPで転送するところまでを放送。
翌日の朝刊にアップルの全面広告(15段広告)として、日比野氏が作成した作品を掲載しました。つまり、テレビで制作過程を見た日比野克彦氏の最新作が、翌朝には朝日新聞読者の手元に届いているわけです。現在ならスマホのSNS上で日常的に行われている、バラバラのフォーマットのコンテンツをインターネットで連携させることを、30年前の商用インターネットがスタート時に行った画期的な「企画」でした。
電通に限らず当時の「広告屋」は、新しもの好きばかり。広告主の宣伝部も同じような人種で、一緒になって、世の中の生活者を驚かせたり、喜ばせたり、感心させて、商品・サービスの価値を好意的に受け入れてもらいたい。そのために、日本初・世界初の「企画」づくりに、部署や会社を「越境」して集まり、知恵を絞って、きちんとミスなく実現することが、お仕事でした。
統一した指標を作って「業界標準」を作ることに奔走
杓谷: 『日本新聞』や、このAppleのプロジェクトを通じて、テレビ局や新聞社と一緒にインターネットを使った仕事の機会が増えていき、それが1996年からの株式会社サイバー・コミュニケーションズ(以下CCI)でのキャリアにつながったわけですね。出向することになった経緯を教えてください。
藤田: 同年4月にソフトバンクがYahoo! JAPAN(以下、ヤフー)を開始し、7月にその広告を売るために電通とソフトバンクの合弁でCCIが設立されました。私は30才で出向、取締役に就任しました。「取締役って、何を取り締まるのだろう?」と本気で思いました(笑)。
当時のソフトバンクはパソコン雑誌の出版業と、パソコンのパーツやソフトウェアの流通業を行う新進のベンチャー企業でしたので、インターネット広告の主力メディアである新聞社と円滑にコミュニケーションが取れて、インターネットメディアの可能性についてソフトバンクと同じ目線で話ができる人間を求めており、電通社内を探したら私以外いなかったという消去法で決まったのだと思います。しかも、ライン業務に携わっていなかったので、すぐに異動させることができる、という辺りが実情だったように思います(笑)。
杓谷:『iNTERNET magazine』の1996年11月号にCCIが設立されてから間もない藤田さんのインタビュー記事が残っていました。CCIでは、どのような思いで仕事に取り組んだのですか?
出典:『インターネットマガジン1996年11月号―INTERNET magazine No.22』(株式会社インプレス発行)
藤田: 今では笑い話になりますが、最初の課題はインターネットメディアの媒体力を測る指標を共通化することでした。当時は1日当たりのページ(HTML)「アクセス」総数と、ファイルの「ヒット(サーバーへのリクエスト)」総数が併存していました。これだと画像パーツが10個あるページは、1回表示(1アクセス)されただけで「11ヒット(HTML+画像10個)」になってしまうので、広告価格と関連する媒体力を広告主に説明できません。「1日100万ヒット達成!」とメディアが発表しても、1日数十万アクセスのメディアの方が、接触人数(ユニークユーザー)が多いかもしれません。
私は、同じような課題に取り組んでいた米国ABC協会(新聞の発行部数公査機関)などが発表していた「インプレッション(広告が表示された回数)」や「ページビュー(ウェブページが表示された回数)」を参考に、用語の定義や使い方などインターネット広告の「業界標準」、ルール作りに奔走しました。新聞社やインターネットメディアを回って、買い手(広告主)の視点に立って、
- 「アクセス数やヒット数ではなく、ページビュー数で統一しましょう」
- 「広告のバナー画像の原稿サイズは、縦横このピクセル数に統一しましょう」
と説得して回りました。地味な話ですが、広告主に安心して新しい広告メディアを使ってもらえるためには、「定義」や「ルール」を決めて、比較可能にする必要がありました。こうして、ようやくマスメディアと遜色のない、信頼できる広告メディアだと広告主に認められるようになったのです。
現場で一つひとつ新しい基準を作っていく毎日
藤田: ヤフーのトップページにある広告「パイロットシート」(現在の「ブランドパネル」の前身)の広告商品化も、ヤフーとCCIとの間で相当な時間をかけて議論しました。たとえば、当時のインターネットはアナログ電話回線経由のダイヤルアップ接続(256bps~64kbps)が主流でした。
なので当時のブラウザは、テキストが先に表示され、後から画像が徐々に表示される仕様でした。その結果、「パイロットシート」広告の表示に失敗したり、そもそもブラウザの設定を画像表示オフにしているユーザーもいたりしました。そこで、ヤフー側と協議した上で、広告主や広告会社には画像が表示できない場合のテキスト文(クリックすればリンクは飛ぶ)も必ず入稿してもらうルールにしました。
出典:1996年11月号の『iNTERNET magazine』 (筆者所蔵)
これは余談ですが、連載の中で触れられていたMSN(第12話参照)は、スタート当初からマイクロソフトとCCIの間で広告枠の独占販売契約を結んでいました。売上を伸ばすために、画面上位にある「今日の特集サイト」の一番下の行を広告にすることで、合意しました。これは『日本新聞』で示した「記事下広告」の考え方から生まれたものです。
出典:Internet Archive
当初は広告という表記がなかったことと、ニュース性のある広告コピーを必須としたので、とにかくクリック数が多くて価格もどんどん上昇。ヤフーの「パイロットシート」に匹敵する人気広告メニューになり、注文が溢れてしまいました。そこでマイクロソフトと協議し、上の写真の通り4行すべてが広告になりました。
その後、下2行はライバルのDAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)がセールス担当するようになっていました。私がCCIを離れ、しばらく経ってからのことです(笑)。
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