29歳の自分に伝えたいこと

仲間づくりが仕事を切り拓く決め手! 元Web研代表幹事 棗田眞次郎さんのコミュ力

2005年から2009年までWeb広告研究会の代表幹事を務められた棗田眞次郎さん(元味の素)に、29歳だったころのお話を綴っていただきました。

今回、「29歳の自分に伝えたいこと」にご執筆いただいたのは、2005年から2009年までWeb広告研究会の代表幹事を務められた棗田眞次郎さん(元味の素)です。1974年に味の素に入社し、営業マンとして数々の経験を積まれ、1999年にWeb業務に就任。仲間との人脈を活かしながら道を切り拓いてこられた棗田さんは、29歳で、どのような転機を迎えられたのでしょう? (編集部)

インターネットが確立していない時期に入社

 私が29歳だった1979年は、ほぼWebが無いといってもよい時代でした。JPNICインターネット歴史年表を参考にさせていただくと、インターネットの前身となるARPANET(米国防総省の高等研究計画局のネットワーク)が4拠点を接続してスタートしたのが1969年で、TCP/IPというインターネットのプロトコルが最初に発表されたのが1973年。そして、私が味の素に営業マンとして入社したのは1974年。1999年に広報部でWeb業務を行い、2000年にはWeb広告研究会メンバーになって、2015年にリタイアするまでホームページを担当していました。

棗田氏の経歴

素敵な仲間ができた新人時代

 では、新人時代の自分が何を考えていたのかを振り返ってみます。私が味の素に入社し、家庭用商品の営業マンとして最初に配属されたのは広島支店でした。もともと広島ネイティブなので土地勘も、人脈もあり、新入社員としては甘すぎる環境で、今から考えると、知らない土地で苦労した方がよかったようにも思います。

 味の素の流通形態は、メーカーから卸店(一次店・二次店・三次店)、そして小売店(量販店を含む)ですが、小さい支店なので、メーカーとしてこのルートの家庭用全商品を担当。入社当時は、食品業界のなかでも味の素は卸店側から破格の対応をしてもらい、新入社員の若造でも、行けば社長室に通され、宴席では上座に座らされていました。

 私本人は必死にやっていたつもりでしたが、卸店の販売ノルマにしても私の持ち分はどう転んでも体勢に影響がないレベル。地元スーパー等に関しては、担当は自分しかいないので人脈づくりからはじめて、けっこう楽しくやっていて、まだ新人ということもあり、かなり甘やかされていたと思います。

 この広島時代には、社外メンバーで構成されているSports Lunaticsというグループにも参加して、キャンプやスキーなどに行き、仲間ができました。仲間といえば、恐羅漢というスキー場で転倒して複雑骨折したときには、有線電話を駆使して仲間が入院先まで手配してくれたことがありました。今でも素敵な仲間として、つながりを持ち続けています。ちなみに家内とは、その仲間達がやってくれた骨折記念一周年記念パーティーで知り合い、結婚まで至りました。

コバンザメ方式で活路をひらく

 そんな楽をしていた広島から、1978年に大阪支店に異動。異動先は新設された新商品の担当部署でした。実は広島支店は小さな組織で、家庭用全商品を担当していましたが、大阪支店は規模が大きいので、調味料関係、食品関係、油脂、冷食等で組織が細かく分かれていました。たとえば営業一課は「味の素」、「ハイミー」、「ほんだし」、「アジシオ」等を担当し、営業三課はマヨネーズやマーガリン、「クノールスープ」等を担当するという具合です。

 私が担当したのは、知名度ゼロで、組織の知名度もゼロ。全く新しいカテゴリーの商品なので、卸店や量販店などにアポを取って商品説明からスタートしても、なかなか相手にしてもらえない状況でした。訪問しても短時間で終わるという状態で、味の素の看板があったとしても、担当する商品によって得意先の扱いも異なることを実感しました。

 そこで考えたのがコバンザメ(小判鮫)方式です。商品力の高い商品をもつ営業一課や三課の人間は、卸店・量販店と人間関係もしっかり築いているので、これを利用しない手はないということで、くっついて歩くことにしました。これが効果てきめん。相手もちゃんと話を聞いてくれ、一応の仕事ができるようになりました。余談ですが、得意先も味の素の組織にランク付けをしていたようです。

店舗のトップと名刺交換して人脈づくり

 新商品担当組織が解散後は営業一課に異動しましたが、改めて看板の強さを実感しました。その後は量販店店舗を担当するという組織に所属。店舗とのコミュニケーション強化ということで、店舗のトップと名刺交換をしようという積極的な活動を開始しました。大規模店の店長となると取締役クラスなので、最初は怪訝な顔をされましたが、味の素の看板を使って突破していきました。

 この積極的なコミュニケーションづくりは、後々役に立ちました。というのも、味の素本社からお偉いさんが来て何店か見学に行く時に、店長に直接連絡をして、見学に同席してもらうことができたからです。これは社内的に意外と評価されました。

そして、Webマスターになる

 30代前半の1984年には東北支店に異動。盛岡・山形の所長を歴任して、1991年には本社販売企画部に異動しました。販売企画部でやったことは営業マンをサポートするデータ作り、仕組みの構築でした。卸店に商品を押し込んで商売完結ではなく、卸店の先にある流通と商談して成約させれば、卸店からは自動的にメーカー発注が発生するという、今では当たり前の方法を実現するために、データのあり方、仕組みを検討しました。

 1995年からは、味の素のホームページ開設の検討を、有志メンバーとして開始し、1996年のスタート時には誰もやる人がいなかったので勝手にWebマスターになりました。でもこの時点では業務上のミッションはゼロで、正式業務ではないため評価対象外。「棗田はWebで遊んでいる」と言われていました(笑)。懐かしく思い出されるのは、ほかに取られていたajinomoto.comを、お金を払わないで取り戻したことです。

 そしていよいよ1999年からは正式業務としてホームページを担当。2000年にはWeb広告研究会(Web研)メンバーになり、2015年にリタイアするまでホームページを担当していました。Web業務に就いて、改めてありがたいと感じたのは、仲間の存在です。

わからなかったら聞いて解決! Web研の仲間に感謝

 現在の味の素のホームページの原型は2004年ごろに完成させたと記憶しているのですが、1999年当時、困ったのは社内には誰もWeb構築・運用について教えてくれる人がいなかったことです。インターネット検索をしても、まだまだ稚拙な仕組みなので情報が薄く、本屋に行っても資料は無いという状態で、自分の偏った乏しい知見だけでなんとかやっていた時代でした。

 1999年に設立されたWeb研に私が参加したのは2000年ですが、参加後は劇的に状況が改善しました。つまずいたら、Web研で聞けば誰かが丁寧に教えてくれるからです。ここから、私のWebにおける他人の知見活用の歴史が始まるわけです(笑)。

 Web研は昔も今もそうですが、その筋ではプロの方が集まっている団体。しかもコンセプトは「オープン」な関係。わからないことがあれば、そのメンバーに聞けばほぼ解決します。言い方は悪いですが「無料のコンサル集団」をもっているようなものでした。もちろんアドバイスをいただいた方のうち、何社かにはその後ビジネスとしてお付き合いさせてもらいましたが、数としては申し訳ないほど少なかったように思います。そして、迷惑かもしれませんが、今でも皆さんのお世話になり、本当に感謝しています。

29歳のあなたへ! 知り合いをたくさん作ろう

 さて、29歳の自分にというお題ですが、あの頃の自分に伝えたいことは実はあまりありません。というのも、小支店から大支店に異動して社内外でいろいろな体験をさせてもらったおかげで、たくさんのことを学べたからです。さまざまな方にお世話になり、有意義に過ごすことができていたと思います。1つあるとしたら「もっと謙虚になれ!」ということかな、と思います。

 あの頃は、自分が無知なことを他人に知られたくないばっかりに、自分のなかだけで解決を図っていました。素直に誰かに相談していたら、もっと楽にさまざまな考え方を得ることができていたはずです。

 そして、現在29歳の方へ。私の時代とは全く環境が違うので威張って伝えることは特にありませんが、強いて言えば「知り合いをたくさんつくれ」です。広島・大阪での社外の仲間、社内の先輩たち、2000年からのWeb研の皆さん、この方たちによって私はすごく助けられたからです。いろいろな機会をみつけて、ぜひ仲間をつくってみてください。自分のキャリア形成に必ず役立つと思います。

この記事が役に立ったらシェア!
メルマガの登録はこちら Web担当者に役立つ情報をサクッとゲット!

人気記事トップ10(過去7日間)

今日の用語

Python
「Python」(パイソン)は、プログラミング言語の1つ。プログラマのグイド・ヴ ...→用語集へ

インフォメーション

RSSフィード


Web担を応援して支えてくださっている企業さま [各サービス/製品の紹介はこちらから]