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自分史(日経BP時代)1989年~1999年」 からご覧ください。
続いて、仕事時代の第二ステージに入っていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。
・日経BP時代
NECに入ってすぐに、まあ5年でいいかなと思ったという話は自分史(NEC時代)でした通りで、4年目くらいからは次はどこにしようかなというのを薄々気にしながら情報を集めていた感じだったかもしれない。といっても、35年くらい前の話だから、新聞の求人広告を中心に見ていたくらいだったと思う。ひたすら電話営業して数を稼ぐ求人みたいなのはよく見かけたが、そりゃ営業成績が出せれば高給取れる可能性はあるけど、自分には絶対に無理だなあと感じたり、拙速に行動に移すことはなかった。
で、結局新聞広告に出ていた日経BP社の調査部員募集といった広告に目を引かれたという訳だ。日経新聞の子会社だし、待遇(給与)も日経並みでかなり良さそう。調査部って何をするところなのかはよくわからなかったし、当時気軽に転職できるような時代でもなかったけど、まあ行動してみるかという感じで応募。詳細は既に忘却の彼方だが、恐らく所属することになるであろう部門長の面接を受け、そこを通過したら役員面接という具合に進んだのだと思う。普通に内定を頂き、いつから来れますかといった感じになるが、それなりの時間は掛けてNECを円満退社して、初の転職となった。
調査部とはどういう仕事をするのかピンとこなかったが、いわゆる「メディアリサーチ」をする部署だった。メディアリサーチとは、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・インターネットなどのメディアについて、その特性・効果・影響・利用法などを探るための調査のことだ。テレビで言うと分かりやすいのが、視聴率調査になるだろうか。どういう属性の人がどの番組をよく見るのかを調べることで、番組制作の役に立てたり、CM枠を売るための元データにする訳だ。出版社では独立したメディアリサーチ部署が社内にあることは今でも少ないと思うのだが、日経BPは違った。
この辺りについては、日経BP社自体について少し話をした方がいいだろう。自分が入社する前年まで、社名は日経マグロウヒル社だった、1969年に日本経済新聞社と米国マグロウヒル社との合弁企業として設立。マグロウヒル社はビジネス誌の「ビジネス・ウィーク」やパソコン誌「BYTE」などを発行する世界有数の出版社で、そのノウハウを吸収するために合弁企業を作ったのだろう。そして1988年に日本経済新聞の100%子会社になり「日経BP社」となった。BPとはBusiness Publication の略でビジネス出版という意味だ。調査部はそんな米国流の「データによって広告を売る、誌面を作る」ために参考になる資料作りをする専門の部門ということだ。
無料で大量に雑誌をエグゼクティブにばら撒く米国出版事情なども知ることになったし、雑誌広告には定価があってないようなものであったり、販売部数なんかも年間で一番売れた時の印刷部数を大本営発表するなど、凡そ不正確なデータが氾濫しているものだと業界内事情も知ることになった。そんな中でも日経BPの雑誌は基本的に当時定期購読誌しかなく、読者全員の完全なリストがあったので読者アンケートもきちんとできたし、購読者の数も正確に把握できたので、精度の高いデータを基に定価での広告販売、雑誌の内容への評価の把握を誌面作りに反映していくといった面では抜きんでていたのではないだろうか。そういった諸々の調査データの収集と関係部門への提供を仕事としていた。
仕事は全く新しく新鮮で楽しかった。調査部は「長」と呼ばれる部課長クラス的な人を筆頭にして、その配下に担当者レベルの10人超の社員とアシスタントの臨時職員で構成されている。みんな若くて、担当者レベルだと自分が上から2-3番目にくるくらいな若さで驚いた。最初は自分より年齢が下の人に対して「君」とよぶのか「さん」と呼ぶのか迷ったりしたが、基本的にはこの辺りから誰に対しても「さん」と呼ぶのが良さそうだと思っていたかもしれない。
入社直後は、どうせこれからも人は増えそうだったので、定型業務はマニュアル化しておいたらどうだと提案して、マニュアル整備をすることになったが、みんな結構嫌がったのは印象深かった。若いのに経験と勘が大事みたいな考えの部員が多いんだなあと。自分は逆に多くの仕事は言語化してマニュアル化しておくべきという考え。言語化することで、自分の理解のあやふやな部分も炙り出されて、いい訓練になるし、何かあってもすぐに別の人が引き継げるので、いいことづくめのはず。嫌がっていた人達は、多分単に面倒なだけだったんだろうとは思うが。。。
調査部は共通部門の位置づけになるのだが、一方で各部員は担当する雑誌が割り振られているので、雑誌で縦割りになっている組織の中にも半分入っている構造で、雑誌ごとに開催される定例ミーティングにも唯一担当者レベルなのに出席するというユニークなポジションだった。これはNECの時もそうだったが、かなり上の人達が会議をする中にいきなり入って話を聞いているだけでも勉強になったことは間違いない。
そしてやがて、調査部も担当雑誌のグループ別に分裂し、年次が比較的上だった自分は、技術系雑誌を束ねた一つの「局」の調査課長みたいな位置づけになってしまう。ここから苦難の道が訪れる。30歳少しの自分が、一応予算もついた小さい部門のトップになって、10人弱の人の管理と自分の今までの仕事もやらなければならない。しかも、図書館的な機能も統合されたので、アシスタントの女性は4名もいるという状態。詳しいことは言えないが、毎日ひやひやする想いで出社していた時期もあった。この時期を経て、人のマネジメントはやりたくはないという意識が強化されたような気がする。
ここで仕事内容からは少し離れて昼休み事情や交友関係などを。入社してから暫くは昼休みは調査部の同僚と三々五々グループに分かれて、ふらっと外へ出てどこで食おうかと言いながら行列にならんで店に入って、雑談しながら飯を食うというルーティーンに参加するも、この怠惰な時間に耐えられず、NEC時代のように運動することにした。もちろん体育館もシャワーもない。トイレで着替え、非常階段の上り下りを10往復した後、倒立(逆立ち)1分を3セットとか器械体操系の基礎トレーニングをやるだけだ。そして濡れタオルで汗を拭き、執務室へ戻り自作の弁当を食べるという日常にした。
入社した頃は全社の社員数が増加の一途を辿っていたので、頻繁に賃貸のオフィスを引越ししたものだが、どのビルにも非常階段があって実は殆ど人通りがないので、知り合いに見つかることもなく意外と心地よく運動できるのだ。あとは、早朝出勤を習慣にしていた時期もあり、その時は半蔵門線永田町の長いエスカレータには乗らず、その横にある100段の階段を1段抜きで駆け上がることもやっていた。まあ、人があまりやらないことを普通にやるので、全てを知っている人はいなかったと思うけど、ちょっと変わった人認定はされていたと思う。まあ、仕事以外のことなら人の評判は意に介さなかった。
仕事の話に戻るが、調査部も縦割り分割されて暫くのちに、再び共通部門の「調査部」に統合され、人のマネジメントもしなくてよくなり、1部員に戻ることになったが、やはり5年もやっていると、段々分かってきた積りになってきたのか飽きてきたことは間違いない。この頃だろうか、この会社は部署異動がシステマチックに行われることがないことにようやく気が付いた。年に2度くらい昇進昇格や異動の時期があるのだが、異動に関して言えば、出す側と受ける側の部門長双方の意見が一致しない限り成立しないという仕組みなのだ。人事部がこの人はこういうコースで成長すべしみたいな異動を提案したり介入をすることはやらない。自分のように飽きやすい人間は次に進みたいところに媚びを売るなりして、周到に準備をしておかなければ滅多なことでは動けないのだ、と気が付くのに時間が掛かってしまった。
その頃からだろうか、調査部在籍後期にはやる気が減退し、新たに着任した部長にも厳しくあたる不良社員化していく感じだったと思う。またいろんな人事異動などを見ているにつけ、トップは日経本社からの落下傘部隊だし、バブル崩壊でバブル雑誌の休刊が続いて部門が減ると、今度は人余りの問題になる。会社の人口ピラミッドを見ると結構ヤバイことも分かった。会社の成長は停滞し、上のポストは渋滞、10年後の中高年ばかりになる会社の未来が目に見え、遅まきながら他部署へ異動希望を毎年のように出して、ようやく別の新規事業発足時に拾ってもらえたのは幸いだった。
そこはいわゆる編集職場。その後も別の新規事業の編集部に異動する。分かりやすく例えるとガートナーとかIDCなどのいわゆるハイテク調査会社みたいな事業を模索するような部署だった。一応紙媒体も月次で届けるのだが、IDとパスワードでサイトに入って、そこでコンテンツを見る権利を与えるようなサービスを始めた。実はNECに居たときに、ハイテク調査会社のデータを買っていたこともあり、一種の憧れみたいなものがあったので、まさにぴったりな感じで嬉しかったものだ。自分の担当はインターネット系に関わるデータ収集と分析予測みたいなことになる。
ここで、ある人との出会いが決定的な分岐点になる。自分の部署企画のセミナーで登壇した時のことだが、講演終了後にNTTの研究所の人が声を掛けてきたのだ。簡単に言うと、インターネット視聴率データ収集プログラムを開発した部署の中の人か近しい人で、それに興味はないかと聞いてきたので、早速上司と研究所詣をし、インターネット視聴率を事業化しようという話がトントン拍子に進んだ。既に米国でも日本でもインターネット視聴率サービスの走りみたいな事業がそこここで湧いていて、早速米国の2社に会いに行ったりと世界のスタンダード争いの始まりはこういう感じなのかと体感できた。
実際にパイロットテスト的に、何人規模だったか覚えてないが、協力してくれるモニターを募集してデータを収集し、そこから様々な集計をしてレポートを作ったりした。その後、正式に事業化しようということで、別の独立した専門部署を作るように経営会議を通して、「インターネット視聴率センター」の長になる。理由は分かる人には想像できると思うけど、この時期は「社長失格」で有名なハイパーネットの社長に会いに行ったこともあり、仕事で後日また繋がった社員の人もいた。また視聴率データを買うのはまずは広告代理店さんなので、その辺りの関係先にはよく訪ねて行ったりしたものなので、それまで付き合いのない人達との繋がりが一気に拡がった時期でもあった。
アシスタントが1人つき、社員も1人増えという感じではあったが、一方で競合の動きも激しく、始めたはいいものの先行きは明るいものとは言えなかった。日本で5社が争うような状況だった。この辺りの詳細は大幅に割愛するが、いろいろ紆余曲折があり結果的に自分は米国由来のインターネット視聴率サービスを利用したサービスを開始したネットレイティングス社に2000年1月にジョインすることになった。日経BPの関係者の方々には大変申し訳ありませんでしたという以外の言葉はない。なおもう絶版になっていると思うが、自著の「インターネット視聴率白書」は日米のインターネット視聴率黎明期の詳しいことが記載されている。
日経BP社に在籍した10年6カ月のうち、自分の気が乗らない時期に鉢合わせした人には大変申し訳なかったと思うが、メディアに居たこの時期は、調査・統計はもちろんのこと、広告/広報/取材/執筆/編集/校正/セミナー登壇/出版・メディア全般/印刷/色...といった様々な分野の事柄について理解を深める時代になった。細かいところでいうと、間違いやすい広告主名、間違いやすい用字用語なんかも、その後の文章の校正に大いに役立っている。
プライベートでは子供も生まれ、幼稚園時代は送り迎え、小学校時代は多数の行事のほか、公園遊びに連れて行ったり、日経の健保の保養所に連れて行ったり、こちらも目まぐるしかった。記録を取らない生き方をしていると、こういう時に正確に一つ一つ振り返れないのは残念でもある。住まいは、田園都市線沿線駅からギリ徒歩圏内の中古の一戸建てに買い替え、さらにすぐ近くの中古の一戸建てにと、狭くなったら広い所へとどんどん住み替えていった。バブルがはじけても住宅価格はまあ高めが維持されていた印象だけど、少しずつ広くしていったので、結果的にはいきなり買うのは無理な家に最後には辿り着いた感じだろうか。
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