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完全な状態のオリジナル記事は 「
故 稲垣正夫氏を偲んで」 からご覧ください。
旭通信社(現アサツーディケイ)の創業者の稲垣正夫氏がお亡くなりになった。僕のビジネスマン人生に最も影響を与えた方である。本当にひとつの時代が終わったんだなと思う。
新卒でアサツーに入った僕は稲垣社長の半径7~8mのところに席があって(稲垣さんは社長室があるにも関わらず社員と同じ大部屋に平社員と同じデスクを置いていた。)ふたりでの会話も多かった。
入社当時のアサツーは隔週で土曜日が出勤日で、ウィークデーは出先に行きっぱなしの僕は土曜日しか伝票を切って受注簿をつける時間がなかったので、土曜日でもよく暗くなるまでデスクワークをしていた。すると稲垣社長がトントンと僕の肩と叩いて「横山さん、そろそろ帰りましょう。」と言われる。(当時、稲垣社長は新卒の平社員も「さん」づけで、社員が7~800人になっても顔と名前を全員記憶していた。)もうオフィスには僕と稲垣さんしかいなかった。そう言われれば、急いで片付けて電灯を消してオフィスに鍵をかけていっしょに社屋を出るのだが、当然稲垣さんには社長車(デボネア)が待っていて、「横山さん乗ってきなさい。」とおっしゃる。一番最初は「断るのももしかしたら失礼かも」と乗ってしまったが、僕の上長たちに関していろいろ取材が入るので困った。それ以降はなんだかんだ言って同乗は丁寧にお断りした覚えがある。w
その後も平社員でも気軽に声をかけてくださる稲垣さんをみんな敬愛の気持ちを込めて社員の間では「社長」ではなく、「稲垣さん」と呼んでいた。
僕は稲垣さんに直談判したことが3回ある。1回目は同期のカミさんと結婚する時。当時もうアサツーは上場していたのに、社員同士の結婚では女性は辞めろということになっていて「じゃあ、僕が辞めます」と言ったら怒られるし、「それはおかしくないですか?」と食い下がったことがある。
2回目はDAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)を起案した時。デジタルガレージ社には「僕は稲垣会長を説得してくるから、君らは博報堂さんに行って一緒にやってくれるように頼んでくれ」と言って、稲垣さんと2人でお話した。今、朝日広告社さんのオフィスになっているビルの13Fの役員応接室だ。
「博報堂さんと一緒にインターネット広告の会社をつくりたい」と言うと、稲垣さんは「2週間ほど前に博報堂の近藤会長と会食したんですよ。」と言う。「横山さん、私はその時に近藤さんに『アサツーを一企さんと合併させて、それを博報堂さんと一緒になってもらって電通さんに対抗する勢力をつくりましょう。』とお話したんですよ。」と言う。「げっ、そんな話オレみたいな小僧にしちゃうんだ。」と思って焦った。「まあそう簡単な話でもないんですが、まずは今までのように何でも競合会社ということではなくて、『協業できることが何かあればやっていきましょう。』とお話したんです。」「でも協業の材料がなにもなかったので、このお話はいいお話ですね。」と。まあそういう絶妙なタイミングでお話したことでDACは出来た。
ちなみにこの時アキアというパソコンにインターネット広告の表示イメージをつくって稲垣さんに見せると「横山さん、これはミニコミですね。」とおっしゃった。この「ミニコミですね。」というフレーズも僕は一生忘れない。w
3回目の直談判は、「DACを上場させたい」という話をしに行った時だ。
稲垣さんは「面白いじゃないですか。どんどんやりなさい。」と言ってくれた。そこで稲垣さんにお願いしたのが僕のパートナーをその気にさせるということで、1週間後に2人連れ立っていくと、稲垣さんはどうやってアサツーをつくり、どういう気概で仕事と会社経営に臨み、どういう目的と心持ちをもって広告会社で初めての上場を果たすに至るのかという話を1時間半くらい蕩蕩としてくれた。この時のお話は今も僕の財産だ。(日経で稲垣正夫版「私の履歴書」が読みたかった。)
アサツーもDACもADKインタラクティブも、そして今も、僕のビジネスマンとしてのストーリーに必ず登場する最も影響力のあった「広告業界最後のカリスマ」が亡くなった。
「稲垣さん、起案して持って行ったいろんな話をやらせていただいて、本当にありがとうございました。今の私があるのは稲垣さんのおかげです。」
合掌。(涙)